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尾張徳川家・直系の略系図 尾張徳川家の初代義直は紀伊徳川頼宣と水戸徳川頼房の兄で、その石高は六十一万九千五百石で御三家の首位であり、名実とともに御三家の筆頭だった。義直は治山治水に意を用い、新田を開拓するなどして領地の立体的拡張を図った。一面では文教の振興に努め、自ら『軍書合鑑』を著わすなどした。『軍書合鑑』の末尾にある「王命に依って催されるゝ軍」は尾張藩の勤王が初代義直以来のものであることを示すものといわれる。 尾張徳川家の二代目で、「守成の名君」といわれた光友は、岩代国梁川に大久保家と信濃国高取(後に美濃国高須に移された)に四ツ谷家という支藩を設けた。梁川松平家は三代で亡びたが、高須松平家は明治維新まで続いた。 尾張徳川八代宗睦の死去で、直系の尾張徳川家の血は跡絶えた。分家の高須松平家が本家の尾張徳川家を継ぐのが当然だった。 ところが将軍家は尾張藩に諮ることなく一方的に「押付け養子縁組」を強行した。 尾張徳川十代斉朝は一橋治国の長男で、七歳で尾張藩主になった。斉朝は二十七年在位した。 尾張徳川十一代斉温は将軍家斉の十九男で、八歳で尾張藩主になった。斉温は在位十二年間、一度も名古屋城入りせず、死去して棺に納まって初めて入城したという。 斉温が死去した天保十年三月二十日には、高須松平家の嫡子(二男)慶勝は十五歳だった。当然、尾張徳川家の家督相続が認められるべきだった。しかし将軍家は将軍家斉の十一男で既に田安斉匡の養子で、二十九歳になる斉壮を尾張徳川十二代目として送り込んできた。斉壮は在位六年で死去した。 尾張徳川十三代目には田安斉匡の七男で、九歳になる慶臧が尾張徳川家に送り込まれてきた。四年在位しただけだった。 嘉永二年(1849)、尾張家支封高須松平義建の二子、慶勝が宗家の尾張徳川家を相続した。 安政五年(1858)六月十九日、日米修好通商条約が大老井伊直弼の独断で調印された。六月二十四日、慶勝は水戸徳川斉昭、その子慶篤、越前松平慶永(春岳)と知に将軍家茂に会って直諌しようと「不時登城」した。病気を理由に謁見出来なかったので、大老、老中らと議論をして退出した。七月五日、将軍家茂は慶勝に退隠を命じ、斉昭らに対してもそれぞれ処分をくだした。 慶勝の隠居後、実弟で高須松平家を継いでいた茂徳が尾張徳川家を継いだ。慶勝は桜田門外の変を契機に謹慎を解かれ、将軍家茂の入洛に従って補佐役として京都にあった。そのころ江戸にあって留守役を務めていた茂徳は、老中と諮って生麦事件について多額の賠償金をイギリスに支払うことを約定した。このことは京都にあった将軍職後見役の一橋慶喜には知らされていなかった。これによって、家中で茂徳の失政を非難する者も多かった。これを契機として、尾張徳川家では慶勝・茂徳と、これに党与する家中の間の感情の溝は深まっていった。 文久三年(1863)、茂徳は隠居を余儀なくされ、慶勝の三子義宜が十六代目として尾張徳川家を継いだ。五歳三ヶ月という子供だったので、実権はその父である慶勝が握っていた。
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