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新左衛門家と青松葉事件

上へ 処刑された十四士 新左衛門家と青松葉事件 尾張徳川家 御付家老 徳川慶勝 青松葉事件の真相 その他の人物 怨霊説 「青松葉」語源

慶応四年正月二十日午後四時近く、渡辺新左衛門在綱、榊原勘解由正帰、石川内蔵允照英は御用部屋で待機していた。その紗麻裃姿の三重臣に対して、「鳥の間へ」と達せられた。三士は何事かと思い、鳥の間で着座した。

しばらくすると、御付家老の成瀬隼人正正肥が生駒頼母と内藤喜左衛門を従えて入室、上段に着座した。生駒頼母が懐中から書状を取り出して、「上意」と言った。

「年来、姦曲の処置があったので、朝明により死を賜うものなり。」

「朝命」の一言を聞いて、不審に思った新左衛門はその理由をただそうとして、「隼人正、隼人正...」と言ったが成瀬隼人正は廊下を駈けていってしまった。

榊原勘解由は隣に座っていた新左衛門に対して

「朝命が下ったからには、朝敵ということになろう。全く心外だ。死んでも死にきれない。」

と言った。新左衛門は

「京都にあった田宮如雲を中心とした一派に謀られた。

われわれは、藩侯に対して、ことを構えた覚えは全く無い。ましてや、上御一人(かみごいちにん)に対して反逆した覚えは微塵だにない。たとえ、藩侯の意に反した行為があったとしても、それは藩侯自ら決裁すべきことである。

なにも「朝命」が下るはずはさらさらない。「偽勅」にちがいないが、いまさら、とやかく言うべきではない。「朝命」ということであれば、陪臣の身としては、誠にありがたい仕合せである。ありがたく、お受けしようではないか。」

と、勘解由と内蔵允を諭したという。

そのうちに、下座に控えていた討手介補七、八人が飛びつくように羽がいじめにして、鳥の間から、虎の間、御能舞台、御能楽屋を経て、二之丸向屋敷の前庭へと連れて行った。そこには既に畳が三枚、裏返しにして並べられていた。

新左衛門は立会の目付に対して

「朝命ということであれば、ありがたくお受けする。

ここに今生のお願いがある。どうか、伝家の宝刀、志津三郎で介錯することを許されたい。」

と申し出た。

渡された志津三郎を手にした新左衛門の討手の新野久太夫は、紗麻裃姿の新左衛門の首を刎ねた。

 

当日、新左衛門家では主人の帰邸があまりにも遅いのを不審に思い、しばしば迎えの供回りを差し出したが、鉄門から入る事が出来ずに帰ってきた。城中から親族を呼び出し、屋敷、家禄召上げ、死体引渡しが言い渡された。その夜の十二時ごろ、新左衛門の実弟源吾が屋敷に馳せつけ、事の次第を聞かせた。

新左衛門の妻みつは、狼狽する家人らを制して、

「驚き入った事であるが、武士というものは、いつ、どういうことが起こってくるかもしれない。その時こそ、平素から覚悟しておくべき事である。夫新左衛門の最後は、誠にいたみきれないことであるが、家内のものが周章狼狽したとあっては、この上、夫が恥辱受ける事になる。そのような事があってはなりませぬぞ。」

と言った。そして、まず葵巴紋のついた武器、汁器などを飾って、拝領品など貴重な品は一品も動かしてはならぬと言い渡した。その他の汁器なども徹夜で整理させた。

「屋敷、家禄だけではなく、今日まで結構な生活を送る事が出来たのは、みな殿様のお陰である。今になって、家財汁器を我が物と思ってはなりませぬ。」

と言って、家内の者を自ら指揮した。

その翌日、全て親族の手によって、屋敷の引渡しが行われた。座敷向から奥座敷、納戸まで汁器が整頓されていた。また、倉庫には米俵が充満していたので、引取りの役人はその潔白さに驚き、その実情を城内に具申した。徳川慶勝以下家中の者は、その妻女の処置に感服し、新左衛門家に限って「家財その他の動産は、一切、妻女に賜る」と公許されたので、みつの里方である成瀬正功家へ数日間に渡って運搬された。

 

渡辺新左衛門の子で中川勝助に嫁していたふでは、新左衛門が処刑された当夜、一方的に難縁された。(後、真宗寺・本多氏に嫁した。)中川勝助は武野新左衛門の追手をつとめた。

新左衛門の長男半十郎(29)と二男亘(19)は四千石・織田満也家にお預けとなった。また、新左衛門の妻みつ(45)、三女ふで、四女志やう、三男鋭三(9)は山澄民部家にお預けとなった。一週間後、みつを始め女子は石河数江家へ移された。収容されていた者には湯を使用することが禁じられていた。山澄家だは、不憫に思って、内密でしばしば湯を提供したが、みつは「掟をまげることは避けたい」と言って水を求めていた。みつを始め女子は、一週間後に石河数江家へ移された。

半十郎は他家預け中に肺結核で死去した。

新左衛門家の家来も諸家へお預けとなったが、まもなく赦免された。

新左衛門の妹さだは、在京尾張藩士で勤王家だった尾崎八右衛門忠征の長子忠恕に嫁いでいた。八右衛門は忠恕に難縁を勧めたが、忠恕は耳をかさなかったので、勘当同然の生活をしたという。

明治三年(1870)十二月五日、十四士の遺族に対してそれぞれ家名の復活が許された。また、応分の家禄が給与され、渡辺家は榊原・石川家と共に五十俵ずつ、その他の家には六人口ずつが給与された。これによって、渡辺新左衛門家は士族組入れを許され、渡辺新左衛門在綱の二男亘が新左衛門家を継いだ。

渡辺新左衛門家は愛知郡五女子村(現在の中川区)に帰田したが、後に七曲町(現在の中区)に復帰した。

明治八年(1875)三月一日、尾張徳川家は東京湯島の真言宗霊雲寺で、十四士の土砂加持を修行した。

明治十年(1877)二月、尾張徳川家は十四士の回向料として、遺族に対して壱千疋ずつ送った。

明治十八年(1885)七月二十六日、旧尾張藩士宇都宮三郎、辻可一の夫妻が発起人となって名古屋の大光院で十四士の追善法会を厳修した。これをもって、完全に箝口令をしたという。

大正六年(1917)三月五日、尾張徳川家は東京東大久保の西光庵で、十四士の五十年忌法会を厳修し、遺族宛に香華料二千疋を郵送した。この法会は以後も毎年三月五日に行われたという。

昭和十五年(1940)、愛知県は皇紀二千六百年奉祝記念事業の一つとして、渡辺新左衛門を始め十四士の維新の勲功による贈位を申請したが、これは詮議にならなかった。