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渡辺新左衛門在綱は処刑される直前に、
と言ったという。確かに、朝廷に持ち上げることなく、「領内の事件」として、徳川慶勝が自ら処断すべき事であった。なぜ、「朝命」を必要としたのだろうか? また、尾張徳川十六代義宜を奪い、江戸に下って旧幕軍に合流し、再び西上するという、クーデダーの計画は本当に存在したのだろうか? 首謀者とされた三重臣が処刑された翌日の慶応四年正月二十一日、徳川慶勝の子で当時の尾張藩主、徳川義宜は「南門守衛」の朝命を奉じて、御年寄代御用人・佐枝新十郎、御側御用人代御用人・中西真之助を従え、名古屋城を発って上京した。中西真之助の妻ゆきは、渡辺新左衛門在綱の次女だった。もしクーデダーの計画が存在していたら、岳父渡辺新左衛門に内通しているかも知れない中西真之助が義宜を擁奪するには絶好の機会だったはずだ。中西真之助が岳父渡辺新左衛門に内通しているかも知れないのに徳川義宜を供して上京したことは、納得できない。つまり、これはクーデターが存在しなかった証拠ではないか。 明治天皇の外祖父として、公卿間に実力のあった中山忠能が慶応三年(1867)十一月九日に在京の尾張家重臣を評定したメモによると、成瀬隼人正正肥は佐幕から尊王に、田宮如雲篤輝は初め中立・今勤王、林左門は誠実勤王、丹羽賢と中村修は激論の末勤王、田中国之輔は「未タ若」としている。 相次ぐ幕府による「押付け養子縁組」によって、尾張藩内に反幕思想が高まり、幕末になって金鉄党の結成をみたが、その要因は尾張徳川十二代斉壮の相続問題だったとされている。当時、在府の御付家老・成瀬正住は斉壮の相続問題の謀議に加わったとして失脚し、御付家老の竹腰家が優勢にあった。ところが明治維新には成瀬家と竹腰家の立場は逆になっていた。また、新政府には徳川慶勝と在京の勤王派の重臣たちが要職に就いて、既に元々の金鉄党の目的は失われていたはずだ。そこで金鉄党と成瀬派は、竹腰派を完全に失脚させようと、計画を練ったのではないか。 しかし、クーデターが存在しなかったら十四士を処分する理由は無かったはずだ。佐幕派と思われる渡辺新左衛門ら十四士に罪科を作り上げて、処刑してしまったのではないか。 処刑された者の中には横井孫右衛門と沢井小左衛門という、長州再征のときに大阪にあった尾張徳川十五代茂徳の親書を開封したということで、既に永蟄居を命じられていた者もいた。この様に、既に刑罰を受けていた者まで処刑される必要は無かっただろう。 また、渡辺新左衛門らを犠牲にして、新政府に忠誠を示して尾張藩の安泰を図ろうとしたとも考えられる。徳川慶勝は初めは公武合体論者だったという。また、その後も幕府からも新政府からも利用され、中立を保とうと図ったともいう。それを考えると、新政府から信頼を受け難い立場にあっただろう。 また、長州藩は徳川慶勝を憎んでいたという。それは、慶勝が「不時登城」によって謹慎、蟄居を命じられたときに、長州候がいろいろと赦免に尽力したのに、長州候父子が謀臣の汚名を着せられた時に慶勝が何も尽力せず、征長総督となって第一次長州征伐に参加したからだという。 薩摩藩からも恨みをかっていたという。宝暦三年(1753)十二月二十五日、幕府は島津けに木曽川改修の「御手伝普請」を命じた。この工事は島津家家老の平田靱負が総奉行となり、宝暦五年三月二十八日に完成させた。その間の要員の犠牲は病死者三十三人、自殺者五十三人だった。また、総工事費は四十万両という巨額だった。五月二十五日、総奉行の平田靱負は切腹している。 その、恨みを持っている長州藩と薩摩藩が、新政府では尾張藩の味方なのである。尾張藩は不利な地位に在ったに違いない。 第一次長州征伐のとき、長州毛利家は三家老を十一士を処刑した。(あと一人、切腹を命ぜられたものがあり、北島又兵衛、久坂義助、寺島忠三郎の三参謀が陣中で没している。)青松葉事件で三重臣と十一士が処刑されたが、これは偶然だろうか? しかし、明治に入ると尾張勢は皆、新政府から解任されていった。尾張徳川家は幕政のあいだ、御三家の筆頭でありながら、ついに将軍を擁立することが出来なかった。また慶勝は御三家筆頭ということで、朝幕両陣営から利用され、従兄弟の慶喜を裏切り、「青松葉事件」という尾張徳川家創始以来の空前の悲劇を展開してまでも忠誠を披瀝した。更に実弟の会津容保、桑名定敬を撃つなど、「大義、親を滅する」の行為をあえてしたが、明治維新後は全く報われるところが無かった。明治四十五年の間、尾張出身で大臣の座に上がったのは田中国之輔と加藤高明の二人だけだった。(また高明には岩崎弥太郎の女婿という事情があった。)
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