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徳川慶勝

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尾張徳川家十四代目藩主の徳川慶勝(1824 - 1893)は尾張徳川家の分家である高須松平藩の十代目藩主、松平義建の次男として、江戸四谷邸に生まれた。嘉永二年(1849)、宗家でまた徳川御三家の筆頭である尾張徳川家を継いだ。

慶勝の同胞は、いずれも明治維新史に名をとどめる俊英ぞろいだった。

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武成 - 石見国浜田松平家を継ぐ。

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(義比)茂徳 - 初めは高須松平家を継ぎ、後に尾張徳川家十五代、更に一橋家を継ぎ、一橋玄同となる。

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容保 - 会津(保科)松平家を継ぐ。京都守護職となる。戊辰戦争では鳥羽伏見の戦で敗れた後、会津で降伏するまで旧幕軍側につき、官軍と戦う。

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定敬 - 桑名(久松)松平家を継ぐ。京都所司代となる。戊辰戦争では鳥羽伏見の戦に敗れた後、会津で実兄松平容保に合流、そこでまた官軍に敗れた後、函館の五稜郭に逃げ、五稜郭の戦が始まる直前に降伏するまで旧幕軍側につき官軍と戦う。

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義勇 - 義比、その子義端の後、高須松平家を継ぐ。

徳川慶勝周辺の略系図

高須松平家九代義和は水戸徳川家の出身で、水戸烈公斉昭の父、水戸徳川治紀の弟だった。また、慶勝の母、高須松平家十代義建の夫人は烈公の姉だった。つまり、慶勝は烈公の子で最後の将軍となった徳川慶喜とは血の濃い従兄弟だった。実弟達の茂徳、容保、定敬は皆、佐幕派だった。

慶勝は、初は公武合体論者だったという。そんな慶勝が、なぜ従兄弟の将軍慶喜を裏切り、実弟の会津松平容保と桑名松平定敬を撃つことなどしたのだろうか。