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半蔵流渡辺家人物伝

 

歴史的に嵯峨源氏の人々は一文字の名を特徴としている氏族が多い。嵯峨天皇の皇子達は皆一文字の名前が与えられ、子孫もそれに習って一文字の名が与えられた。

嵯峨源氏の中でも有名な半蔵流渡辺家は渡辺企の子俊忠から普通に二文字の名を持った。たた、「渡辺綱の子孫だ」ということを強調するためであろうか、諱(いみな)に「綱」を用いていた。この諱は渡辺忠房の子で足利義満に仕えたという満綱の時代から明治維新まで本家は勿論、分家でも使用された。ここまで長い間、同じ諱を使用した氏族は少ないのではないか。

 


半蔵流嵯峨源氏略系図
半蔵流嵯峨源氏略系図

 

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源 融

嵯峨天皇の第十二(十八とも言われる)皇子。従一位、左大臣、贈正一位。

嵯峨天皇の第十二皇子として生まれる。嘉祥三年(850)、二十八歳で非参議となり、この非参議就任によって臣下の位置に身を置くことになった。貞観十四年八月二十五日、左大臣に昇進する。寛平七年、七十三歳で没す。河原院を本宅として、別荘を嵯峨の棲霞観と宇治の平等院に持っていた。棲霞観は融の死後、清涼寺となり、宇治の別荘は藤原道長の所有となり、その子頼通の時代に平等院となった。その間に、平等院は天皇の離宮にもなり、国宝の鳳凰堂の名は、堂の形が鳳凰に似ているからとも、屋根の鳳凰の飾りによるとも言われているが、この鳳凰が天皇より渡辺氏に下賜された家紋となった。紫式部の『源氏物語』の主人公、光源氏は融がモデルになっていると言われている。「河原左大臣」としても知られる。

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源 昇

源融の子。正三位、大納言、民部卿。

延喜十八年六月二十九日、六十歳で没する。河原大納言。

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箕田 武蔵守 仕

源昇の子。従五位下、武蔵守。

仕は、武蔵守として下向し、足立郡箕田郷を開墾してその地に住み、箕田氏を称した。(この流は「箕田源氏」と呼ばれる。)

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箕田 宛

箕田武蔵守任の子。

宛は『今昔物語』に、平忠常と武勇を競って勝負がつかず、ついに引き分けたと語り伝えられている。

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渡辺 綱

箕田宛の子。

綱は、源満仲の婿である仁明源氏敦の養子となり、摂津国西成郡渡辺村に移って、渡辺を称するようになった。尊卑分脈に「源 敦、綱を養って子と為す」とある。綱は満仲の子頼光に仕えて、四天王の一人と称せられた。父・宛の死後摂津・渡辺に移って渡辺姓を名乗った(現在の中央区渡辺町付近)。「天下一之弓上手」と言われた。綱の子孫が摂津渡辺党で、源頼政の挙兵を援護、以来南北朝から戦国期にかけて各地を転戦し、その戦いぶりは勇猛をもって知られた。この系統は戦国末期、武田・今川・織田・徳川・毛利など有力戦国武将に仕え、集合離散しながら戦い続けた。万寿二年、没す。

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渡辺 久

渡辺綱の子。源次、源別当、源次別当源大夫判官。

肥前国松浦郡梶谷に住む。松浦党の祖。

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渡辺 安

渡辺久の子。滝口大夫、従五位下。

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渡辺 傳

渡辺安の子。従五位下、滝口大夫惣官。

白川天皇に仕える。十六歳にて紀伊国伊戸半大夫の三十四騎を一人で討つ。その太刀は「伊戸丸」と呼ばれた。

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渡辺 右馬允 満

渡辺直の子。鳥羽院に仕え、鳥羽院北面の武士として活躍する。天下第一弓の手として知られた。渡辺武者所。

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渡辺 播磨守 省 (渡辺播磨次郎)

渡辺右馬允満の子。保元の乱の時に源三位頼政に味方し、その後三条宮御方として平治に死す。

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渡辺 豊前守 繁

渡辺兵衛尉授の子。豊前守。

駿河の興津左衛門尉の家人とある。木曾(源)義仲に従い1184年粟津で戦死。

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渡辺 左衛門尉 兼

渡辺繁の子。初め三郎、後左衛門尉。後嵯峨院に仕える。渡辺武者所。

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渡辺 源六 俊忠

渡辺左衛門尉企の子。箕田兵衛尉俊重に養われる。

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渡辺 源次 満

渡辺刑部丞忠房の子。初め源次、のち右馬允。渡辺武者所。

将軍足利義満に仕え、本領の地を賜り、諱を与えられた。実は後小松天皇の庶子にて、渡辺刑部丞忠房に養われたと、渡辺家の系図にあるらしい。

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渡辺 源次 道綱

渡辺源左衛門安綱の子。半三。三河国額田郡浦辺村に移住して、浦辺七郷の領主となる。

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渡辺 清左衛門 国綱

渡辺源次道綱の子。初め半七郎、後清左衛門。

尾張国に移住した。

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渡辺 源太左衛門 範綱

渡辺源次道綱の嫡子。妻は上田宗太郎長房の娘。

松平長親・松平信忠・松平清康に歴仕し、享禄二年五月、家康の祖父清康が牧野傅三が守る吉田城を攻めたとき清康に従軍、二十八日三河国下地にて戦死。六十歳。法名竟丸。

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渡辺 清兵衛 有綱

渡辺源次道綱の三男。初め源次、後清兵衛。

三河国碧海村赤渋村(岡崎市)に住み、松平清康・松平広忠につかえる。永禄四年七月朔日、八十五歳で没す。

渡辺源左衛門家の人物伝はこちら

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渡辺 久綱

渡辺源次道綱の子。滋賀甲賀に移り、後尾張国に移住して織田信長に仕えた。

戦国時代、渡辺孫左衛門の子の渡辺宗右衛門久重(久明)は信長に仕え、その子に渡辺孫左衛門久勝があり、子孫は幕府に仕えたというが、これは渡辺久綱の子孫であろうか。この渡辺家の家紋は半蔵流と同じく「丸に三星一文字、三本骨三扇、洲浜」とある。

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渡辺 次郎左衛門 治綱

渡辺源太左衛門範綱の長男と言われるが、実際に何男かは明らかではない。

松平清康・松平広忠に仕える。

渡辺半兵衛家の人物伝はこちら

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渡辺 次郎四郎 氏綱

渡辺源太左衛門範綱の嫡子。母は上田宗太郎長房の娘。妻は都筑大炊助忠政の娘。

松平清康・松平広忠に仕える。下地合戦の時、その場において父の仇を討取る。永禄六年(1563)六月二十五日、三河国浦部村にて七十五歳で死去。法名宗圓。

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渡辺 助右衛門 照綱

渡辺源太左衛門範綱の二男。

松平清康・松平広忠に仕える。天文九年六月六日、三河国安城にて戦死する。四十九歳。

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渡辺 左衛門五郎 景綱

渡辺源太左衛門範綱の三男。

bullet渡辺 左衛門五郎 時綱

渡辺左衛門五郎景綱の嫡子。

天文十七年、松平広忠が織田信秀と三河国西野で戦った時、敵の頭を射殺する。


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渡辺 六郎左衛門 遠綱

渡辺源太左衛門範綱の四男。母は上田宗太郎長房の娘。初め平六、後六郎左衛門。

三河国額田郡浦部村に住み、松平清康・松平広忠・徳川家康に歴任する。天正十五年七月二十三日、浦部村にて没す。七十九歳。法名道可。

渡辺六左衛門家の人物伝はこちら

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渡辺 源五左衛門 高綱

渡辺次郎四郎氏綱の嫡子。母は都筑大炊助忠政の娘。妻はは渡辺八右衛門義綱の娘。

松平広忠・松平家康に仕る。天文十六年九月六日、広忠の上野城攻めで先鋒をつとめ、槍を合わせて名を挙げる。弘治二年二月二十日、駿府の家康の命により、松平甚太郎義春の奥平久兵衛貞直の守る日近城攻めに参加、軍功を挙げる。永禄七年一月十一日、三河一向一揆のとき、一族とともに一揆方になり額田郡針崎(岡崎市)の勝鬘寺に拠て家康に反し、針崎で戦死した。

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渡辺 藤蔵 興綱

渡辺次郎四郎氏綱の子。永禄四年八月二十日、三河国下和田にて没す。

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渡辺 半蔵 守綱 1542-1620

渡辺源五左衛門高綱の嫡子、母は渡辺八右衛門義綱の女。初め半蔵、後忠右衛門。妻は平岩新左衛門親重の娘(平岩主計頭親吉妹)。

天文十一年(1542)、三河国額田郡浦部村で生まれる。弘治三年、十六歳より松平(徳川)家康に仕えた。豪勇をもって知られ、「徳川十六神将」の一人。永禄元年(1558)の石瀬合戦、同四年(1561)の長沢城攻めに戦功があり、翌年の三河国八幡の戦いではひとり踏みとどまり、槍をまじえてよく防いだ。小坂井合戦に於いて敗退した家康軍の殿軍を務め無事本隊を帰城させる。 やがて反撃戦を敢行し勝利した際、家康からその槍の功を賞賛されて、世人、この時の守綱の奮戦ぶりをみて「槍の半蔵」と呼んだ。三河一向一揆では一揆方に加わったが罪を許され、額田郡のうちで百貫文の地を、さらに三十貫文の地を与えられた。永禄十二年(1569)、掛川城攻めに槍で武功をあげ、以後三方ケ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどの合戦で先鋒として力戦した。長久手の戦いでは旗本足軽頭として出陣して勇名をはせ、古戦場跡の血の池は半蔵が槍を洗ったところともいわれる。関東入国後、武蔵国比企郡のうちで三千石を領した。文禄元年(1592)、朝鮮派兵では家康に従い肥前名護屋に出陣した。関ヶ原の合戦後の慶長五年に家康より長年の功績に対し、当時では珍しい南蛮鎧を拝領し、四千石、六千石の地を「騎馬同心」三十人の給米とされて足軽百人の組頭に任ぜられる。慶長十八年(1613)七月、家康に呼ばれた守綱は、尾張初代藩主となる徳川義直に仕えて補佐するように直命を受けた。この任により、守綱は幕府から五千石および尾張徳川義直からも五千石が加増され、三河郡寺部(豊田市)、岩作(長久手町)、それに武蔵国比企郡の領地を併せて一万四千石の大名格領主となり、寺部城主となった。慶長十九年(1614)藩主義直の初陣に伴って大阪冬の陣に出陣、翌年大阪夏の陣にも出陣した。藩主義直をよく補佐したのち、元和六年(1620)四月九日、名古屋で死去。享年七十九歳。名古屋興善寺に葬られた。

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渡辺 半十郎 政綱

渡辺高綱の子で半蔵守綱の実弟。初め半十郎、後新左衛門。母は渡辺八右衛門義綱の女。

永禄二年、十六歳にて徳川家康に仕える。永禄五年、東三河の合戦にて高名をあげる。後、近江国姉川及び遠江国一言坂三方ヶ原の戦で軍功を挙げ、首級を得る。、また六笠天方の城攻めでは一番首を挙げる。天正三年五月、長篠の戦で真田源太左衛門信綱を討ち取る。そののち、駿河国田中城の攻撃では兄半蔵守綱と共に先鋒を仰せ付けられる。長久手の戦では筧勘右衛門元成と共に御旗奉行を勤む。天正十九年、武蔵国入間川村で采地四百石を賜る。慶長元年五月二十五日、享年五十三歳で没す。法名休岳。

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渡辺 新左衛門 秀綱

渡辺半十郎政綱の嫡子。初め半十郎、後新左衛門。妻は渡辺半蔵守綱の娘。

天正十三年、遠江国浜松において、十五歳で徳川家康に仕える。後、武蔵国田梨村において采地二百石を賜る。後、武蔵国田梨村において采地二百石を賜る。後、徳川家康に従い、肥前国名護屋と関ヶ原に出陣する。慶長十八年、渡辺半蔵守綱と同様に尾張徳川家付けとなり、尾張徳川義直に仕え、知行高五百石を領した。

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渡辺 儀左衛門 定綱

渡辺半十郎政綱の次男。