|
|
|
渡辺新左衛門在綱の長女は千代といった。製作者はこの千代が製作者の祖母、渡辺千代の曾祖母だと聞いて育った。 水谷盛光著『尾張徳川家明治維新内紛秘史考説 -青松葉事件資料集成-』によると、熊沢富士子氏( 渡辺新左衛門在綱の妹さだの曾孫、熊沢武男氏の令室)の調べでは千代は長徳寺・山田家に嫁したという。どうしてもこの山田家に嫁いだという千代と製作者の祖母の曾祖母の千代とは同一人物ではないように思われる。 熊沢富士子氏の調べでは、次のように書かれている。(以下のことは『尾張徳川家明治維新内紛秘史考説 -青松葉事件資料集成-』に詳しい。)
水谷先生は、新左衛門在綱の三男、鋭三がまとめた『渡辺鋭三自筆手記』に「千代」の名を出すことなく次女のゆきを「長女」としている事実を取上げ、『実説・名古屋城青松葉事件 -尾張徳川家お家騒動-』では千代について「妾腹の子か」と書かれている。 祖母の渡辺家では、次が伝えられている。
こうして見ると、どうしても「二人の千代」が同一人物とは考え難い。製作者としては、五代前の先祖の渡辺千代が渡辺新左衛門在綱の娘であると信じたい。しかし、今となってはそれは証明しがたいことだろう。 水谷先生が仰る通り千代が新左衛門在綱の妾腹の子だとすると、千代が大奥に上がらず、今川氏の血を引く郷士に嫁したとも考えられるのではないだろうか。製作者の先祖の千代の夫、善性院は安政四年(1857)に没している。千代と善性院の間には三人の兄弟があったという。二男の貞助が1852年の生まれであり、長男の左鏡がその前年(1851)に生まれたと仮定しても祖父である新左衛門在綱が三十一歳頃の時に生まれた事になる。あまりにも若過ぎるのではないか、と考えられなくも無い。疑問に思うのは製作者だけであろうか。しかし、青松葉事件が起きた慶応四年(1868)には新左衛門在綱の惣領半十郎が二十九歳で、新左衛門在綱が二十歳の頃に生まれた事になる。半十郎には二人の姉(長女千代と次女ゆき)がいたので、新左衛門在綱は若年の頃に既に子持ちだったのは確かである。千代が新左衛門在綱があまりにも若い頃に生まれた妾腹の子であるために、一般に披露されずに田舎の郷士の嫁になった可能性も有るのではないだろうか。 新左衛門在綱の三男、鋭三は姉の中西勝助に嫁したゆきを長女として、千代には全く触れていない。青松葉事件が起きた慶応四年(1868)、鋭三はまだ九歳だったので、千代の存在を全く知らされること無く育ったとも考えられるが、『渡辺鋭三自筆手記』が書かれたのはもっと後日である。鋭三が千代に触れていないのは千代が表に出されずにいた証拠ではないだろうか。そのため、鋭三でさえ千代の存在を知らなかったのかもしれない。千代が表に出されずにいたとすれば、千代が「大奥に上がっていた」というのは極めて不可解であり、「田舎の郷士の嫁になった」説の方がより適当であると思われる。現に野間の渡辺家は新左衛門家と交流が在ったとは伝われていないので、鋭三が千代の事を知らなかった、という説はより理解し得るものになるであろう。しかし、これはあくまでも製作者の推定に過ぎない。
この「製作者の渡辺家」の人物伝は下のとおり。
以下が現在判明している幕末以降の渡辺新左衛門家の系図です。
|