尾張徳川家に仕えた渡辺半蔵家の主な知行地は加茂郡寺部(豊田市)で、寺部に陣屋を持っていた。現在の日進町本郷(旧本郷村)、日進町折戸(旧折戸村)も半蔵家の知行地だった。(日進市都市化推薦委員会、日進市の各町の歴史) 豊田市の岩滝町は慶弔18年(1613年)から明治2年(1889)までは寺部城主渡辺半蔵の知行地であったといい、二代目寺部城主・渡辺半蔵重綱によって築かれた鞍ヶ池の水が、この岩滝町で滝となって市木川にそそいでいる(マイタウンTOYOTA)。岩作村(長久手町)にも給地があった。
十一代目寧綱の頃は知行高一万千八百六十余石で、江戸屋敷、大阪屋敷のほか、名古屋上屋敷を三の丸本町御門内、中屋敷を呉服町下白林寺前、下屋敷を出来町と熱田尾頭町に持って、住吉町の守綱寺を菩提寺としていた。
渡辺半蔵守綱から始まった、この尾張徳川家重臣の渡辺半蔵家は、ほぼ累代尾張藩の御年寄職に就いた家柄だという。
幾つかの分家があり、分家は大名になった家が一つ、あとは多くが幕臣、尾張徳川家の重臣、または紀州和歌山藩徳川家の重臣になったという。
明治時代に入って、渡辺半蔵家は華族に列した。

渡辺半蔵家歴代当主
 | 渡辺 半蔵 守綱 1542-1620
渡辺源五左衛門高綱の嫡子、母は渡辺八右衛門義綱の女。初め半蔵、後忠左衛門。妻は平岩新左衛門親重の娘(平岩主計頭親吉妹)。
天文十一年(1542)、三河国額田郡浦部村で生まれる。弘治三年、十六歳より松平(徳川)家康に仕えた。豪勇をもって知られ、「徳川十六神将」の一人。永禄元年(1558)の石瀬合戦、同四年(1561)の長沢城攻めに戦功があり、翌年の三河国八幡の戦いではひとり踏みとどまり、槍をまじえてよく防いだ。小坂井合戦に於いて敗退した家康軍の殿軍を務め無事本隊を帰城させる。
やがて反撃戦を敢行し勝利した際、家康からその槍の功を賞賛されて、世人、この時の守綱の奮戦ぶりをみて「槍の半蔵」と呼んだ。三河一向一揆では一揆方に加わったが罪を許され、額田郡のうちで百貫文の地を、さらに三十貫文の地を与えられた。永禄十二年(1569)、掛川城攻めに槍で武功をあげ、以後三方ケ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどの合戦で先鋒として力戦した。長久手の戦いでは旗本足軽頭として出陣して勇名をはせ、古戦場跡の血の池は半蔵が槍を洗ったところともいわれる。関東入国後、武蔵国比企郡のうちで三千石を領した。文禄元年(1592)、朝鮮派兵では家康に従い肥前名護屋に出陣した。関ヶ原の合戦後の慶長五年に家康より長年の功績に対し、当時では珍しい南蛮鎧を拝領し、四千石、六千石の地を「騎馬同心」三十人の給米とされて足軽百人の組頭に任ぜられる。慶長十八年(1613)七月、家康に呼ばれた守綱は、尾張初代藩主となる徳川義直に仕えて補佐するように直命を受けた。この任により、守綱は幕府から五千石および尾張徳川義直からも五千石が加増され、三河郡寺部(豊田市)、岩作(長久手町)、それに武蔵国比企郡の領地を併せて一万四千石の大名格領主となり、寺部城主となった。慶長十九年(1614)藩主義直の初陣に伴って大阪冬の陣に出陣、翌年大阪夏の陣にも出陣した。藩主義直をよく補佐したのち、元和六年(1620)四月九日、名古屋で死去。享年七十九歳。名古屋興善寺に葬られた。

徳川十六神将の一人、渡辺半蔵守綱。
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 | 渡辺 半蔵 重綱 1574-1648
渡辺半蔵守綱の嫡子。母は平岩新左衛門親重の女。初め半蔵、後忠右衛門。
三河国額田郡浦部村で生まれる。天正十六年、十五歳のときに徳川家康に仕え、小田原の戦、関ヶ原の戦に参陣して戦功をあげた。慶長十八年(1613)七月、父守綱と共に家康の第九子で尾張徳川家の始祖となる徳川義直に仕えるよう命ぜられる。慶長十九年、大阪の陣に父と共に徳川義直の先陣をつかまる。元和元年の陣では父の代官として先陣にあった。元和六年、家督一万四千石を受け継ぎ、父の遺物、長谷部国信の刀を献ず。寛永元年、武蔵国の采地の内比企郡三千石を三男忠綱に与える。忠綱の死後、その地は重綱に返されるが、この地を五男吉綱に与えられるように申し出て、許される。寛永十二年、六男綱貞に千石の地を分け与える。寛永十八年、家老に就くや藩主義直の信望をうけ、治政をよく補佐した。寛永二十年、家督を四男・半蔵張綱に譲り致仕する。藩主義直からその長年の功労に対し、隠居料二千石が重綱に与えられた。重綱の正室であった水野左近大夫正重の女と、後妻の杉浦右衛門七盛嗣の女との間に七男三女をもうけた。慶安元年十月一日、名古屋にて没す。享年七十五歳。三河国加茂郡寺部の守綱寺に葬られる。
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 | 渡辺 新左衛門 秀綱
渡辺半十郎政綱の嫡子。初め半十郎、後新左衛門。妻は渡辺半蔵守綱の娘。
天正十三年、遠江国浜松において、十五歳で徳川家康に仕える。後、武蔵国田梨村において采地二百石を賜る。後、武蔵国田梨村において采地二百石を賜る。後、徳川家康に従い、肥前国名護屋と関ヶ原に出陣する。慶長十八年、渡辺半蔵守綱と同様に尾張徳川家付けとなり、尾張徳川義直に仕え、知行高五百石を領した。
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 | 渡辺 図書助 宗綱
渡辺半蔵守綱の次男。母は平岩新左衛門親重の娘。初め半四郎、後図書助。従五位下。妻は小栗忠左衛門久次の娘。
天正十九年、十三歳で徳川家康に仕える。文禄元年、仰せにより徳川秀忠に奉仕し、慶長五年、真田昌幸の守る信濃国上田城の攻撃に参加する。慶長十八年、御使番となり、慶長十九年大阪陣に従い所々の御使を務め、元和元年の大阪陣では仰せをうけたまわり大阪城中に赴き、帰って事の様子を言上する。徳川家康が駿府へ出馬する時、秀忠は宗綱を御使として関東の處置を問わせて、また江戸にあった陸奥国の諸軍に出馬の仰せを下す。宗綱は佐和山に行き、上洛して京都に於いて家康公の軍を待つように、また敵が出兵したら交戦するようにと復命する。五月四日から六日、山田十太夫重利、太田善太夫吉正、近藤勘右衛門用政と共に先手の諸将への御使を務める。七日、川口長三郎近次、天方主馬通直と共に仰せを賜って天王寺本町より千貫櫓に行く。敵は既に城門を閉ざしていたので宗綱らは塀を破って突入する。敵兵は塀の内より槍を突き出し、さらに鉄砲を放ち、宗綱らは退いた。八日、豊臣秀頼の自害後、井伊掃部頭直考、安藤対馬守重信に従い、今村彦兵衛重長、石川八左衛門政次と共に大坂城内に赴く。元和三年、御目付に進む。この年、加藤肥後守忠広と家臣が不和を生じ、忠広及び家老らは江戸に呼ばれる。このとき、山田十太夫重利と共に仰せを受けて、加藤家の領地肥後国に赴き、罪ある者を糺明して処罰を行う。元和五年六月、福島左衛門大夫正則がその領地、安芸備後両国没収されるとき、安藤対馬守重信、永井右近大夫直勝が城請取の役をつかまった。そのとき宗綱は中川半左衛門忠勝と一緒に御使を承り、牧野主馬介、東條伊豆守長頼に付いて、福島家の領地に赴き、正則の手書をその家臣に渡す。この時家臣は異議無く領地を退くことになり、その事を注進する。元和八年秋、最上源五郎義俊の断絶の時、宗綱は命によって伊達陸奥守政宗の雑兵三千人を率いて出羽国に赴き、最上領内の城を受け取る。これより先、しばしば采地を加増され、相模、上野、上總の三国の内、三千七百石を知行する。寛永三年、上洛に従い、この年従五位下、図書助に任じられる。元和九年六月二十五日、御弓頭に移り、元和十一年、百人組の頭に移る。同年、将軍徳川家光の上洛の時、美濃国の山中に於いて番衛をする。その時鉄砲を持って通る者を見つけ出し、五人を捕らえて糺明して処罰を行った始末を賞せられ、七月十六日手づから御料の羽織を賜う。元和二十年三月二十六日、仰せを受けて常陸国下館城を守衛する。承応三年十二月十九日、職を辞し、万治元年六月十四日致仕する。寛文五年四月十六日没す。八十七歳。法名道演。後、代々の葬地とする。
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 | 渡辺 忠四郎 成綱
渡辺半蔵守綱の三男。母は岡部丹波守真幸の娘。初め忠四郎、後源五左衛門。
慶長八年、十三歳にて徳川秀忠に仕える。大坂両陣に出陣する。元和三年、徳川家光に附属させられ、御書院番を勤め、采地三百石を賜う。寛永十年二月七日、二百石を加増される。慶安三年八月五日、六十歳で没す。法名了哲。
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 | 渡辺 小半蔵 勝綱
渡辺半蔵重綱の長男。母は水野左近大夫正重の娘。初め国松、後小半蔵。
慶長十五年、十三歳にして徳川秀忠につかえる。のち、大坂両陣に出陣。元和元年七月十九日没す。
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 | 渡辺 忠七郎 忠綱
渡辺半蔵重綱の三男。母は水野左近大夫正重の娘。
元和元年、十二歳で徳川秀忠に召されて出仕する。父重綱から半蔵家の所領の内、武蔵国比企郡三千石を与えられ幕臣となったが、元和九年七月二十二日、二十歳で没す。
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 | 渡辺 飛騨守 張綱 1606-1657
渡辺重綱の三男、母は杉浦右衛門七盛嗣の女。渡辺半蔵家三代目。初め半蔵、任官して右馬允と称す。のち飛騨守。
京都伏見にて生まれる。十五歳のときに尾張藩祖徳川義直に仕え、二千石を賜る。寛永十八年(1641)五月、父についで家老となり、二年後に父が退隠したおり采地二千石を父に譲り、家督一万四千石を継ぐ。正保二年(1645)に従五位下、右馬允に任じられた。承応二年、藩政に尽力ありと三千石の加増を受け飛騨守に任じられた。篤信家の張綱は「横山御堂」を渡辺山守綱寺に改め、渡辺家の菩提寺としたのをはじめ、東本願寺から上宮太子・三麻高僧画像を受け、守綱寺に寄進する。正保元年、将軍より伏見桃山城の軍議評定所の建物を譲り受け、守綱寺本堂に改築するとともに鐘楼・太鼓堂。中門及び山門を建立して、寺観を整備した。また、承応元年には不遠寺浄土院を随応院と改称し、その援助を行った。さらに名古屋に守綱寺支坊を立て、渡辺山守綱寺の通所とし、尾張国中島郡苅安賀新田内の今泉百石の地を寺領となし、祖父守綱と父重綱の菩提を弔った。明暦三年江戸在府中に発病し、帰国後の同年十月二十日名古屋にて没す。享年五十二歳。法名を張綱院釈清信と称し、寺部の守綱寺に葬られる。
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 | 渡辺 丹後守 吉綱
渡辺半蔵重綱の五男。初め大学、後半丞、丹後守。母は杉浦忠右衛門七盛嗣の娘。室は高木主水正正成の娘。
慶応十六年、駿河国府中で生まれる。実兄、忠綱の死後忠綱の跡を継ぐことを許され、元和九年、十三歳で徳川秀忠に召されて出仕する。父半蔵重綱の願出により寛永元年(1624)武蔵国比企郡で三千石を賜い、寛永二年十二月十一日新田を併せて三千五百二十石余の御朱印を下さる。寛永九年六月四日より中奥に候し、寛永十三年十月八日御書院の番士に移る。寛永十九年四月、徳川家光が日光へまいるときに諸士の旅宿を分賦する。同年、松平伊賀守忠晴が駿河国田中城を賜るとき、八月二十四日森次郎兵衛重継とともに仰せを承り彼地に赴き城引渡しの役を勤める。十月二十六日番頭に進み、十二月晦日に布衣を着ることを許される。慶安三年九月三日、徳川家綱に附属され、西城御小姓組の番頭となる。慶安四年二月二十二日、尾張大納言(徳川)光友への御使いを承り彼地に赴く。のち、本城の勤となり、八月十六日従五位下丹後守に叙任する。承応三年七月三日御書院の番頭に移り、万治二年八月二十一日御留守居に転じた。寛文元年七月二十一日、御側に進む。同年十一月八日、大阪城の定番となる。この日、河内国志紀、古市、丹北、和泉国大鳥、泉五郡の内において新恩一万石を賜り、すべて一万三千五百石余を領し諸侯に列し、のち大井藩を立藩して武蔵野本に居所を構えた。寛文二年三月六日、大阪に赴く暇を申し出たとき親筆の和歌及び御料の御羽織、時服五領、黄金十枚を賜る。寛文四年四月五日、改めて領知の御朱印を下さる。寛文五年九月十六日、また大阪に赴く暇を申し出たとき常麻の御刀及び時服、羽織、黄金などを賜り、十月四日御手ずから伽羅を拝賜する。寛文八年六月十九日、大阪に於いて没す。淨閑吉綱院と号す。三河国寺部村の守綱寺に葬られる。
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 | 渡辺 大隈守 綱貞
渡辺半蔵重綱の六男。母は杉浦忠右衛門七盛嗣の娘。初め三綱。初め内匠、半右衛門、後大隈守。従五位下。室は丹羽式部少輔氏信の娘、後室は三枝彦兵衛守吉の娘。
寛永四年、十六歳にて徳川家光に召されて御小姓組に列す。後、采地五百石を賜る。寛永十年二月七日、二百石の加増を受け、相模国中郡の内に於いて七百石を知行する。寛永十二年、父重綱の采地近江国坂田郡の内千石を分け与えられ、これまでの采地は納める。正保四年一月十二日、組頭に進む。正保十二年晦日、布衣を着用することを許される。明暦元年九月十日、新番の頭に進み、明暦二年一月二十九日、仰せを承り坂東の国々野山の論地を検視する。明暦三年一月二十七日、先の江戸火災の為、江戸城下及び所々の屋敷地を園に作り変える。寛文元年四月十二日、町奉行に移り、同年十二月十二日蔵米千俵を加増され、二十八日、従五位下大隈守に叙任する。延宝元年一月二十三日、大目付となる。天和元年六月二十七日、先に松平越後光長の家老の申し出により公で判決を下すところを、重き役儀にて陪臣の事を取り扱うことは曲事とされて(一説には賄賂を受けたという)、大老酒井雅楽頭忠清と老中久世大和守広之と共に失脚、八丈島に流される。
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 | 渡辺 藤蔵 長綱
渡辺半蔵重綱七男。母は杉浦忠右衛門七盛嗣の娘。初め源次、後藤蔵。妻は石河伊賀正光の娘。
慶安元年、父半蔵重綱の隠居料二千石を譲られて相続する。寛文八年九月朔日卒、享年二十六歳。
一万石・石河伊賀正光は始め長綱の姉を娶っていたが早死し、竹腰山城守正信の娘と再婚した。
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 | 渡辺 半蔵 宣綱 1645-1689
渡辺飛騨守張綱の嫡子、母は鳥居左近忠勝の女。初め新七、後半蔵。
正保二年(1645)、渡辺飛騨守張綱の嫡男として生まれる。承応二年江戸に上り、父祖の功績により陪臣ながら将軍家綱に拝謁する。明暦三年、父張綱が没し家督一万四千石を継ぐ。元禄二年一月六日に没す。享年四十五歳。寺部の守綱寺に葬られる。法名宣綱院道随。子が無かったため、渡辺藤蔵長綱の子定綱を養子に迎えた。宣綱の人物評を『名古屋市史』は『花守夢物語』を引用して「面対にては成程鬼の腕も切間敷顔色なれども、元来智遇にして、中々判断に及ばず」とか、「己が勝手に家中に詰、百姓あくまでせたげ、唯金銀を貯ふ事を楽しみ母に甚不幸にして道に欠けたる事多し」等をあげ、悪評とはいえ当時の下馬評なので適評に近いとする。守綱、重綱、張綱と三代にわたり尾張藩政に尽力した渡辺家の実績の上にあぐらをかいてしまったといえよう。
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 | 渡辺 備中守 基綱
渡辺藤蔵長綱の長男。母は石河伊賀正光の娘。初め半次郎、後主殿、備中守。従五位下。
寛文五年、尾張国名古屋で生まれる。延宝八年、十六歳にて大井藩主・渡辺越中守方綱の臨終に臨み、養子と成り、その娘を娶る。三月二十九日、養父の遺領を継ぐ。八月十八日、初めて将軍徳川綱吉に拝見する。貞享元年二月二十七日、初めて所領に行く暇を賜る。元禄十一年、武蔵国の領地を近江国野洲、栗太、蒲生、高嶋四郡の内に移され、居所を和泉国大鳥郡大庭寺に移す。元禄十四年三月二十八日、大坂の定番となり、四月四日従五位下備中守に叙任する。享保七年十一月十一日、年頃怠り無い勤務を賞せられて鉄砲三十丁を賜う。享保十二年四月十八日、大庭寺村の居所を和泉国伯太に移す。七月二十五日、年頃の勤労を思し召され、蔵米三千俵を賜う。享保十三年七月十九日、大阪に於いて没す。六十四歳。廣宣基綱院と号す。和泉国泉郡大津村の南溟寺に葬られる。
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 | 渡辺 飛騨守 定綱
渡辺藤蔵長綱の二男で渡辺半蔵宣綱の養嗣子となる。母は石河伊賀正光の娘。初め半平、後半蔵、飛騨守。従五位下。
渡辺半蔵家五代目。元禄二年二月朔日、養父半蔵宣綱の遺跡一万石を賜る。元禄十年正月十八日、老中御用見習となる。元禄十三年(1700)に従五位下、飛騨守に任じられた。藩政に貢献し、渡辺家中興に尽くした。正徳五年二月十日没する。享年四十八歳。法名定綱院道海。
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 | 渡辺 半蔵 直綱
渡辺飛騨守定綱の子。初め源之助、後半蔵。
正徳五年四月二日、父定綱の遺跡と同心足軽を賜り、大寄合となる。享保三年七月二十日卒。法名直綱院道秋。
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 | 渡辺 半蔵 綱保
渡辺飛騨守定綱の子で、渡辺半蔵直綱の実弟。母は大久保氏の娘。妻は竹腰山城守正武の娘。
享保三年八月二十八日、兄直綱の名跡を賜る。宝暦四年七月二十七日没す。
言うまでも無く、竹腰山城守正武は尾張藩御付家老、三万石の領主。
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 | 渡辺 飛騨守 綱通
渡辺半蔵綱保の嫡男。宝暦四年九月十八日、父綱通の家領を継ぎ、大寄合となる。安永五年十二月二十一日、従五位下、飛騨守に任ぜられる。
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 | 渡辺 半蔵 綱光 1772-1838
三代目三河国奥殿藩主、大給松平石見守乗祇の二男で渡辺飛騨守綱通の養子となる。初め在綱、後綱光。
明和九年九月三日(1772)、大給松平石見守乗祇の二男として江戸で生まれる。天明二年(1782)、十八歳のとき、渡辺飛騨守綱通の養子となる。翌年、尾張藩主徳川宗睦に拝謁し、天明五年(1785)、江戸城で将軍徳川家治に拝謁する。寛政十二年(1800)に家督を継ぎ、寺部渡辺半蔵家の九代領主となる。尾張藩では、大名格年寄として藩政の加判に列した。幼名を在綱と称し、潜翁と号したが、他に仙翁、一楽、魯縞、魯江などの別号も持っていた。また、歌学に造詣が深く、村上忠順もその弟子であったと伝えられる。文化元年二月(1804)、病にかかり、職を辞し、天保九年(1838)十月九日に没した。享年七十四歳。法名綱光院殿魯江釈道壽正覚。綱光には実子が無かった。
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 | 渡辺 飛騨守 規綱 1792-1871
四代目三河国奥殿藩主、大給松平乗友の二男。初め綱久。初め豊吉、後半蔵、飛騨守、兵庫頭。従五位下。
三歳のとき八代目・尾張藩士渡辺半蔵綱通と縁組し、さらに叔父の九代目渡辺半蔵綱光の養子となり規綱を名乗る。文化元年、十三歳で家督を継ぎ、二十六歳で家老に就任、従五位下、飛騨守に任じられた。一年後に隠居し、家督を嫡男寧綱に譲り、兵庫頭と改める。二十八歳で剃髪し、兵庫入道をなのり風雅の道に入る。宗一・宗玄・玄竜艸・玄斎・一楽園の雅号をもち、実弟の裏千家十一代玄々斎について茶を学び、又日庵中斎と称した。陶芸も行い宗玄焼と称し、著書もあり、本草学の大家で『泰西本草疏』、『本草図譜』、『一之鳥井又日庵薬草記』を著した。明治四年一月八日、享年八十歳で没す。寺部守綱寺に葬られた。法名規綱院殿兵庫入道釈道翁居士。
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 | 渡辺 飛騨守 寧綱
1810-1860
渡辺半蔵家十一代目。渡辺飛騨守規綱の長男。初め豊太郎、後半蔵、飛騨守。従五位下。
文化七年十月二十七日(1810)、渡辺飛騨守規綱の長男として寺部陣屋に生まれる。幼名を豊太郎と称し、後半蔵と改める。文政二年(1819)三月、十歳にして家督を継ぐ。天保十年(1839)九月、尾張藩の家老となり、四年間務める。嘉永七年(1854)二月、異国船の来航により出府し、江戸の警護に当たる。同年十二月、従五位下、飛騨守に任ぜられる。安政元年より二年までの間、再び尾張藩の家老を務める。万延元年(1860)五月八日に没す。享年五十一歳。法名寧綱院殿従五位下行飛州刺史釈明。
寧綱の代に辰助、柳助たちを主導とする農民運動の加茂一揆が起こった。寺部陣屋ではこれに備えるため、尾張藩へ出兵を以来した。鳴海陣屋から、三沢吉衛門の軍勢が到着した。また名古屋からも、渡辺家指揮下の百人組出兵し、寺部陣屋を鉄砲隊で警備した。寺部領内から農民運動に参加して捕らえられた者は七十八名にのぼり、この運動に関連した十九か村には、過料制裁が課せられた。
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 | 渡辺 飛騨守 綱倫
渡辺半蔵家十二代目。渡辺飛騨守寧綱の嫡子。初め小半蔵、後半蔵、飛騨守。従五位下。妻は成瀬隼人正正肥の養女で渋谷良徳の娘(天保十二年正月-明治三十八年七月)。
天保四年、七月生まれる。万延元年七月、家督を継ぐ。従五位下、飛騨守に任じられる。皇女和宮降嫁の道中警護など、尾張藩の要職を務めた。元冶元年七月、蛤御門の変において尾張藩命により藩兵を指揮し、京都御所南門の警護を水戸藩兵と協力して当たった。長州勢との戦いに敗れ、その責任をとって同年九月自殺した。
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 | 渡辺 半蔵 綱聰
1864-1922
渡辺半蔵家十三代目。渡辺飛騨守綱倫の長男。初め闊綱。
元冶元年(1864)八月十七日生まれる。同年十二月、急逝した父の家督を相続する。この時まだ生後四ヶ月だった。尾張藩は一歳に満たない綱聰に先例によって慶応元年(1865)藩年寄を命じる。隠居していた曽祖父の規綱がその後見役を明治二年まで務めた。明治二年六月、綱聰は寺部領の版籍を奉還し、寺部領は尾張藩の藩知事が管轄した。明治三十五年、男爵に叙任された。大正十一年(1922)一月隠居、昭和四年(1929)十一月十日享年六十七歳で没す。法名を綱聰院殿正四位釈道順と称し、寺部守綱寺に葬られた。
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 | 渡辺 修二
渡辺半蔵家十四代目。渡辺半蔵綱聰の二男。
明治二十一年十二月生まれる。大正十年十月、兄芳綱が廃嫡されたによって、嫡子となり、大正十一年(1922)一月、名跡を相続。検事、貴族院議員となった。昭和五十二年十二月没する。
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