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渡辺新左衛門家

 

製作者の母方の渡辺家は尾張藩重臣の渡辺新左衛門家の子孫である。渡辺新左衛門在綱(御年寄列、二千五百石、五百石足高)は慶応四年(1868)正月二十日、名古屋城二之丸で「朝命」によって処刑さた。渡辺新左衛門を始め14士が処刑された、この出来事を「青松葉事件」と言う。渡辺新左衛門在綱は製作者の祖母、渡辺千代の四代前の人物だ。水谷盛光著『実説・名古屋城青松葉事件』には、「新左衛門の長女千代は、長徳寺・山田家へ嫁したという」と書いてあるが、渡辺千代は製作者の祖母の曾祖母にあたるという話である。

尾張藩士の渡辺新左衛門家は渡辺半蔵守綱の実弟の渡辺半十郎政綱の嫡子、渡辺新左衛門秀綱が尾張徳川義直に仕えて知行高五百石を賜ったことに始まった。

渡辺新左衛門秀綱の子孫で分家したものも多く、尾張徳川家に仕えたもの、紀州和歌山藩・徳川家に仕えたのも在る。

渡辺新左衛門家の上屋敷は「片端筋、竪杉ノ町南東各、門北向」(現在の名古屋市東区泉一丁目四付近)にあった。また、下屋敷を尾張国愛知郡前津村(名古屋市)に持っていた。

渡辺新左衛門家は知行地を戸田庄砂子村(うち122石)、則武ノ庄五女子村(うち340石余り)、朝日庄下ノ郷(うち40石)、国府庄長束村(うち7石余り)、国府庄小池正明村(うち216石余り)、庄田庄榎津村(うち317石余り)、戸田庄包里村(うち90石余り)、松葉庄東条村(うち209石余り)、門間庄青塚村(77石余り)、中切庄越津村(うち153石余り)などに持っていた。(『尾張徇行記』参照)

渡辺新左衛門家の歴代当主

当主 当主在位期間 退位理由 備考
1 渡辺新左衛門政綱 天正十九年(1591)-慶長元年(1596)  
2 渡辺新左衛門秀綱 慶長元年(1596)- 慶長十九年(1614)、尾張徳川家に附属する。
3 渡辺新左衛門景綱           -天和二年(1682) 隠居 年寄(御国御老中)
4 渡辺半十郎相綱 天和二年(1682)-天和二年(1682)  
5 渡辺新左衛門元綱 天和二年(1682)-享保五年(1720) 御城代
6 渡辺長門守久綱 享保五年(1720)-享保十一年(1726) 年寄(老中江戸定府)・従五位下、長門守。
7 渡辺新左衛門綱忠 享保十一年(1726)-明和三年(1766) 隠居 御老中並
8 渡辺新左衛門董綱 明和三年(1766)-?    
9 渡辺半十郎某 ?-文化四年(1807)    
10 渡辺新左衛門維綱 文化四年(1807)-安政六年(1859) 年寄(御老中)
11 渡辺新左衛門在綱 安政六年(1859)-慶応四年(1868) 処刑 年寄
  (渡辺新左衛門安綱) 明治元年(1868)   一時的に家名を継ぐ。分家、渡辺九八郎の子。
12 渡辺新左衛門亘      
13 渡辺新左衛門莫      
14 渡辺新左衛門易      
15 渡辺次郎           -現在    

注:  水谷盛光著『尾張徳川家明治維新内紛秘史考説 -青松葉事件資料集成-』では、渡辺新左衛門元綱(法名岳心)を「六代」としているが、これは正しいのだろうか。『士林泝』を見る限り、どう見ても新左衛門元綱は新左衛門政綱を初代として五代目になるのだが...。

注: 系図を見る限りでは、現在の当主の渡辺次郎氏が十五代なのだが、次郎氏は十七代だと言う。また、新左衛門維綱が十二代だと言う。どうして代数が変わってくるのかは未だ判明していない。

注:  水谷盛光著『尾張徳川家明治維新内紛秘史考説 -青松葉事件資料集成-』によると、渡辺家過去帳には渡辺新左衛門維綱が「十二代」とあるらしいので、これは正しいであろうか。維綱を十二代とすると、次郎氏が十七代で正しいという計算になる。

 

渡辺新左衛門家略系図
渡辺新左衛門家略系図

 

渡辺新左衛門家人物伝

bullet渡辺 半十郎 政綱

渡辺高綱の子で半蔵守綱の実弟。初め半十郎、後新左衛門。妻は平岩五郎右衛門尉親弘の娘

永禄二年、十六歳にて徳川家康に仕える。永禄五年、東三河の合戦にて高名をあげる。後、近江国姉川及び遠江国一言坂三方ヶ原の戦で軍功を挙げ、首級を得る。、また六笠天方の城攻めでは一番首を挙げる。天正三年五月、長篠の戦で真田源太左衛門信綱を討ち取る。そののち、駿河国田中城の攻撃では兄半蔵守綱と共に先鋒を仰せ付けられる。長久手の戦では筧勘右衛門元成と共に御旗奉行を勤む。天正十九年、武蔵国入間川村で采地四百石を賜う。慶長元年五月二十五日、享年五十三歳で没す。法名休岳。

『士林沂』所収の平岩家系図によると、平岩五郎右衛門尉親弘の娘が渡辺半十郎政綱の妻になったとある。

bullet渡辺 新左衛門 秀綱

渡辺半十郎政綱の嫡子。初め半十郎、後新左衛門。妻は渡辺半蔵守綱の娘。

天正十三年、遠江国浜松において、十五歳で徳川家康に仕える。後、武蔵国田梨村において采地二百石を賜る。文禄元年、徳川家康に従い肥前国名護屋と関ヶ原に出陣する。慶長五年、家康に従い、関ヶ原に出陣する。慶長十八年、渡辺半蔵守綱と同様に尾張徳川家付けとなり、尾張徳川義直に仕え、知行高五百石を領した。(『藩士名寄』には三百五十石とある。)慶長十九年、徳川義直に従い大坂の陣に出陣。寛永十五年六月、御普請役となる。万治二年五月四日、名古屋にて病死。

bullet渡辺 儀左衛門 定綱

渡辺半十郎政綱の次男。

bullet渡辺 若狭守 直綱  1601-1668

渡辺新左衛門秀綱の次男。初め半十郎、後一学、若狭守。母は渡辺半蔵守綱の娘。

武蔵国で生まれる。はじめ一学と称し、慶長十九年、大坂冬の陣、夏の陣共に徳川義直に従って出陣。元和二年、十六歳で後の初代紀伊和歌山藩主徳川頼宣に仕える。駿河にて知行三千石を与えられた。太刀も拝領し、太刀の奥書に「此妙刀也、自右肩至左脇一刀截断候、源頼信公以之賜予栄又栄也、故命工刻焉示其不忘也、渡辺直綱書、元和二年八月十六日和州手掻住包国於駿府造之」と記されている。その後十七歳にして鉄砲足軽五十人を預けられ、寛永三年さらに十騎を増やされ、後紀伊国隅田組十五騎を預けられる。寛永十一年、三千石を加増され、正保二年若狭守に任ぜられる。明暦元年知行八千石を与えられる。寛文八年八月、六十七歳で没する。

渡辺若狭守家の人物伝はこちら

bullet渡辺 新左衛門 景綱 (頼綱)

渡辺新左衛門秀綱の子。初め半十郎、後新左衛門。母は渡辺半蔵守綱の娘。

『藩士名寄』:

元和二年、初めて尾張徳川義直に御目見えする。元和五年、召しだされて御進物番となる。寛永七年、御供番となり知行三百石を賜る。寛永十三年九月より翌年四月まで、御城附の勤務となる。寛永十五年、御目付となる。寛永十六年、父新左衛門の知行と入替わり、三百五十石を賜る。寛永十七年、曲淵六兵衛の跡鉄砲組足軽を預かる。寛永十八年、江戸上屋敷御作事奉行となる。寛永十九年、御船奉行となる。正保三年、百五十石の加増を受けて五百石を知行する。慶安四年御国奉行となる。明暦二年八月、二百石の加増を受ける。寛文四年七月八日、三百石の加増を受けて、千石を知行する。

『士林沂』:

初代尾張徳川義直に仕え、足軽頭御船奉行となり、五百石を賜る。慶安四年御国奉行となる。承応元年七月八日、三百石の加増を受ける。寛文五年十月十八日、御国御用人となり、二百石の加増を受ける。寛文十一年、五百石の加増を受け、老中連判を命じられる。寛文十二年、同心十騎を与えられる。延宝三年二月十六日、御国老中となる。天和二年八月致仕する。貞享三年六月没す。

『尾藩世紀』(御年寄勤務年表)によると、渡辺新左衛門が延宝三年から天和二年まで尾張藩の御年寄であったと記されている。これによると、「渡辺新左衛門」は天和二年十一月七日に致仕している。

bullet渡辺 郷右衛門 有綱

渡辺半十郎秀綱の子。分家して尾張徳川家に仕えて三百石を領した。

初代尾張徳川義直に召出されて三百石を賜り、御馬廻となる。後、押奉行及び御供番となる。病のため辞職し、御馬廻となる。寛文二年十二月没す。

渡辺郷右衛門家の知行地の一部は春日井郡北熊村(現在の愛知郡長久手町)に在った。

渡辺郷右衛門家の人物伝はこちら

bullet渡辺 半十郎 相綱

渡辺新左衛門景綱の嫡子。母は彦坂平助忠元の娘。室は志水治右衛門忠良の娘(志水監物忠知の養女)。後室は志水監物忠知の娘。

万治元年、御供番となり、天和二年八月十四日家督相続。同年十月没す。

『士林沂』所収の志水家系図によると、志水治右衛門忠良の娘で志水監物忠知の養女になった者が渡辺半十郎相綱の妻になったとある。また、同家系図に志水監物忠知の娘が渡辺半十郎相綱の後室になったとある。志水治右衛門忠良と志水監物忠知は、共に志水甲斐忠宗(一万石)の子で、慶安元年に尾張藩年寄となった志水甲斐忠政の弟に当たる。

bullet渡辺 源左衛門 弼綱

渡辺新左衛門景綱の子。母は矢野宮内長昌の娘。貞享三年三月三日没、法名了心。

bullet渡辺 半左衛門 秀綱

渡辺新左衛門景綱の子。元禄十三年没、法名清安。

bullet渡辺 新左衛門 元綱

渡辺半十郎相綱の嫡子。初め半太夫、後新左衛門。妻は渡辺源太左衛門奉綱の娘(尾張藩士渡辺監物顯綱妹)。

天和二年十二月二十七日、父の家領を継ぎ千五百石を賜り、寄合となる。元禄元年十月十日、大番頭となる。元禄八年正月十三日、五代目尾張徳川五郎太の傅臣となる。元禄十二年七月十三日、江戸において御側大寄合同心頭格となる。元禄十三年十二月二十一日、尾張において五百石の加増を受け、都領二千石となる。元禄十六年十一月二日、江戸において同心七預けられる。宝永三正月二十一日、江戸において三百石の加増を受け、御城代並となる。宝永五年四月四日、御城代となる。享保五年六月十四日没す。法名岳心。

bullet渡辺 長門守 久綱

渡辺新左衛門元綱の嫡子。初め半五郎、後半十郎、長門守。累進して七百石の加増を受け、三千石を領した。

元禄八年正月二十九日、初めて謁する。享保五年八月六日、父の遺領を継ぎ、大寄合となる。同年九月十一日、江戸において老中となり、、更に江戸定府となり、同心を預けられる。享保六年七月十五日、七百石の加増を受けて都領三千石となる。享保十年十二月二十六日、従五位下、長門守に任ぜられる。享保十一年正月十三日、江戸にて没する。

『尾藩世紀』(御年寄勤務年表)によると、「渡辺長門守」が享保五年から享保十一年まで尾張藩の御年寄であったと記されている。

bullet下条 沼右衛門 孝正

渡辺新左衛門元綱の子で、尾張藩士・下条庄右衛門正春の養子になった。

元禄十六年十一月十五日、召出されて御小姓となり、俸禄を賜る。宝永二年四月、養父の家領千二百石を賜り寄合となる。宝永四年九月十五日、御書院番頭となる。享保十二年十一月十三日御用人となる。享保十五年八月二十五日没する。

下条家は下条正明に始まる。正明が、徳川家康に仕えた下条九兵衛の娘(正明の伯母)清高院の養子となり、徳川義直に付属された。宇多源氏、佐々木定綱の末流と伝える。正明の実父は信州小笠原氏の一族、林七兵衛(『士林沂』)。下条家の石高は二千五百石で、上屋敷は三の丸桜馬場に、下屋敷は愛知郡日置村(名古屋市)に在った。

 
bullet下条 鍋九郎 孝典

下条庄右衛門孝正の嫡子。

父の家領を賜り寄合となる。享保十六年四月二十三日に没する。

bullet下条 伝次郎 正員

下条庄右衛門孝正の子。

実兄、下条鍋九郎孝典の名跡及び家領のうち五百石を賜り寄合となる。元文三年三月、五小姓となる。元文四年正月、七代尾張徳川宗春の莵裘に付属される。同年十二月、寄合となる。元文五年正月、御小姓となる。延享二年六月、八代尾張徳川宗睦の御用人となり、二百石を加増される。

 

bullet寺西 藤左衛門 昌豊

渡辺新左衛門元綱の子。藩老中、三千石・寺西図書(藤左衛門)政矩の養子となる。

享保元年(1716)八月二十九日、養父家領の内四百石を分け与えられて、寄合となる。享保三年二月九日、御供番となる。享保六年三月十二日、御弓頭となる。享保十二年(1727)正月二十七日卒。跡目は渡辺半蔵家の分家の渡辺監物顕綱の子で婿養子の藤左衛門昌凭が継ぐ。

『士林沂』所収の寺西家系図によると、この藤左衛門の名は「昌豊」で、寺西図書政矩の実子で高木志摩清長の養子となった藤九郎の名が「雅言」になっているが、同『士林沂』所収の渡辺新左衛門家系図によると、昌豊の名が「寺西藤左衛門雅言」となっている。高木家の系図でも高木志摩清長の養子となった藤九郎の名が「雅言」になっているらしい為、この藤左衛門の名は「昌豊」で正しいのではないかと思う。

寺西家は尾張藩の重臣。初代寺西藤左衛門昌吉は徳川家康の四男、松平忠吉に仕え、国奉行となった。忠吉の死後、初代尾張藩主徳川義直に仕えて、義直が大阪冬の陣に出陣した時に名古屋城の留守を預った。これが尾張藩城代職の始まりといわれる。その後、昌吉の子、藤左衛門秀昌とその子、藤左衛門昌勝は寄合役に就いた。寺西図書政矩は昌勝の子で、藩老中になった。政矩は享保八年(1723)に没した。政矩の嫡子、図書雅宣は無嗣子で正徳五年(1715)に没している。

bullet渡辺 新左衛門 綱忠

渡辺新左衛門元綱の子、長門守久綱の実弟。初め半之右衛門、後新左衛門、致仕して半十郎。兄久綱の跡を継ぎ、二千石を領した。

実兄、渡辺長門守久綱の死後、享保十一年二月三日、兄の名跡を継ぐことを願出て許され、二千石を賜り大寄合となる。元文二年五月、御老中並となる。延享元年二月、同心九騎を預けられる。明和三年十月四日老年により致任。

『士林沂』所収の石河家系図によると、石河七郎左衛門正信の娘が初め千村善次郎の妻となり、後渡辺新左衛門の妻となった。時代からして、これの「渡辺新左衛門」は綱忠のことではないだろうか。石河七郎左衛門正信は石高八百石、延享二年に尾張徳川宗睦の傅臣になった。延宝三年に尾張藩御年寄となった石河伊賀守章長の息子で、宝永三年に尾張藩御年寄となった一万石・石河出羽守正章の弟に当たる。

bullet渡辺 新左衛門 董綱

渡辺新左衛門綱忠の嫡子。初め竹吉、後半七、新左衛門。妻は成瀬半太夫(大和守)正明の娘。

明和三年十月四日父の家領を継ぎ大寄合となる。

bullet渡辺 九八郎 堅綱

渡辺新左衛門綱忠の子。初め亀太郎、後九八郎。

宝暦八年二月十八日召出され、八代尾張徳川宗睦の御部屋の奥組付属となり、五十石及び五口月俸を賜る。宝暦十一年八月十五日、表組となる。安永三年四月十日御部屋御小姓立となり、加増を受ける。安永五年二月五日、表組となる。

bullet渡辺 半十郎

渡辺新左衛門董綱の嫡子。

bullet渡辺 新左衛門 維綱  1794-1859

渡辺半十郎の嫡子。初め半七、後半十郎、新左衛門。妻と志は尾張藩士(御年寄)渡辺源太左衛門豊綱の娘。

文化四年(1807)家督を相続する。安政六年(1859)八月二十四日没する。法号岱岳。

『尾藩世紀』(御年寄勤務年表)によると、「渡辺新左衛門」が安政五年から翌年まで尾張藩の御年寄であったと記されている。蓬左文庫蔵『家中いろは』(嘉永五年(1852))でも「列・渡辺新左衛門」の名が見える。

尾張藩士渡辺源太左衛門豊綱は三千五百石・成瀬織部正恕の二男で渡辺監物家の当主、渡辺主馬年綱の養嗣子となった。渡辺監物家は千五百石を領した。(蓬左文庫蔵『士林沂』参照)

bullet渡辺 新左衛門 在綱 1820-1868

渡辺新左衛門維綱の嫡子。尾張藩士、御年寄列・二千五百石(内五百石足高)。初め半十郎、後新左衛門。母は尾張藩士渡辺源太左衛門豊綱の娘、と志。妻みつは、三千五百石・尾張藩士成瀬半太夫正功の娘。

部屋住にて尾張藩に仕え、御用人となる。嘉永六年(1853)の米艦黒舟の浦賀来航によって、半十郎在綱は翌年、尾張藩邸の隣りの築地の浜御殿に大砲を並べ、警衛隊の隊長として尾張藩士を指揮した。父新左衛門惟綱の死後、名を新左衛門に改める。尾張徳川十五代茂徳の信頼を得て、用人から御年寄列家老に進む。尾張家家中では珍しく、自費で仕込み銃、西洋馬具などを購入した。常に武術を修め、洋式砲術の利を悟り、私財をなげうって大砲を鋳造し、少壮の藩士に銃陣の訓練を施す。元冶元年(1864)、第一次長州征伐のときには御用人・千賀与八郎、加判滝川又左衛門とともに、舶来のゲーブル銃を肩にして、馬上豊かにオランダ製ゲーブル銃やイギリス製ミニエー銃で武装した一隊を指揮し、征長総督・尾張徳川十四代慶勝に従って、広島へと駒を進めた。大阪市内を行進する尾張藩勢は数こそ多いが旧熊依然たる装備に身を固めていた。しかし、道沿いで見物していた群衆はオランダ製ゲーブル銃やイギリス製ミニエー銃で武装したその渡辺新左衛門隊を見て、「さすがに尾張藩」と目を見張らせたという。その年十一月十八日、芸州浅野家家老・浅野右近邸で、徳川慶勝、成瀬隼人正正肥、滝川又左衛門に並んで長州三家老の首級実験に列座した。

勤王・佐幕の騒然たる中で、尾張藩もその何れかに迷っていた。それぞれ自分の主張に従って、人心は自然に二つに分かれ、新左衛門在綱は、勤王派の田宮如雲の反対側の佐幕派の巨魁として立った。藩論は一向に整わず、暗中に刺客が常にこと二人を狙っていた。ある時、勤王派の刺客数名が新左衛門在綱を襲ったが、新左衛門在綱は少しも恐れず、「お身達は、わしを斬っても時代の流れを断ることは出来ない、二つの論の是非は、後の世の人が決めるものだ。藩論はやがて落ち着く、その時までわしの生命を貸してくれ」と平然と言い放ったという。(『尾張徳川家明治維新内紛秘史考説 -青松葉事件資料集成-』)

渡辺新左衛門在綱は部厚な肩に骨ばった硬い頬をして、いかにも代々の武人らしい風貌をしていたという。武門の名家、寡黙で剛直な男だった。時の藩主に忠実に仕える男で、政治家ではなく、尾張徳川十四代慶勝を担ぐ運動にも加わらなかったし、若侍達とも接触する事もすくなかった。保守的ではあるが、それでいて洋式装備を好むというので、金鉄党からは竹腰派と見られた重臣の一人だった。(『渡邊物語』)

慶応四年(1868)正月二十日、尾張徳川十六代義宜を奪い、江戸に下って旧幕軍に合流し、再び西上するという、クーデダー策謀の首謀者として「青松葉事件」で名古屋城二丸御殿向屋敷に散った(49歳)。討手は新野久太夫、新左衛門家伝家の宝刀、志津三郎で介錯した。名古屋守綱寺に葬られ、墓は現在平和公園守綱寺に在る。

「鉄砲新左」、「青松葉」などという異名が在ったという。

『惟尾美代葵松葉(これをみよ・あおいにまつのは)』表紙の渡辺新左衛門
『惟尾美代葵松葉(これをみよ・あおいにまつのは)』(明治19)表紙の渡辺新左衛門(文中、畑部新左衛門として出ている)。

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晩年の渡辺みつ。1822?-1899

渡辺みつは尾張藩士・成瀬半太夫正功の娘。御付家老の成瀬家の分家で三千五百石を領していたという。成瀬半太夫家は成瀬隼人正正成の弟の成瀬吉左衛門正則の息子、成瀬半太夫正信に始まる。成瀬半太夫正信は千五百石を領し、その子成瀬大和守正惟は享保十年に老中となって、四千石を領した。渡辺長門守久綱の娘は「成瀬半太夫」に嫁したとあるが、これは成瀬大和守正惟の嫡子、成瀬半太夫正明のことだと思われる。

bullet渡辺 源吾

渡辺新左衛門惟綱の三男。

尾張徳川家に召出されて分家し、百五十石を知行した。

bullet渡辺 新左衛門 安綱

渡辺新左衛門家の分家、渡辺九八郎の子。渡辺新左衛門在綱が処刑された後、一時分家の渡辺九八郎家から新左衛門家の名跡を継ぐために迎えられたという。渡辺山(覚王山月見坂)に在った渡辺新左衛門家の墓地を、一族に諮ること無く明治二十六年に売払ってしまったという。

bullet渡辺 半十郎 1839-1869?

渡辺新左衛門在綱の嫡子。青松葉事件で織田満也家にお預けとなり、他家預け中に肺結核で死去した。

bullet渡辺 千代

bullet渡辺 亘 1849?-?

渡辺新左衛門在綱の二男。青松葉事件で実兄半十郎と共に織田満也家にお預けとなった。明治三年、新左衛門家が家名の復活が許され、五十俵の家禄が給与されたとき、渡辺新左衛門家を継いだ。法名岳源。妻はたに(うめ)。

bullet渡辺 莫

渡辺亘の嫡子。法名岳誠。

bullet渡辺 易

渡辺新左衛門在綱の娘の長谷志やうの子。渡辺莫の養子となり、渡辺新左衛門家を継ぐ。法名岳易。

bullet渡辺 次郎

渡辺易の嫡子。現在の渡辺新左衛門家の当主。


 

他で見つけた「渡辺新左衛門」:

bullet「可児のキリシタン」

これによると、

寛文元年(1661)に塩村の領主、旗本林権左衛門が領地の塩村にキリシタン信徒がおり、尾張藩に対してキリシタン捕縛を依頼したことから始まった。依頼をうけた尾張藩では、ただちに国奉行渡辺新左衛門・足軽大将田辺四郎右衛門・代官勝野太郎左衛門・目付鳥居伝右衛門、その他目付二人、手代五人、捕方数十人を三月一日の夜中に出動二日未明に塩村に着きただちに捕縛を開始し、村内のキリシタン二十四名捕え、名古屋へ護送し四日夜に到着した。(正事記)

この「渡辺新左衛門」は渡辺新左衛門景綱のことではないかと思う。

余談だが、この年五月、尾張藩は切支丹奉行を設置している。

bullet加藤国光編「尾張群書系図部集」

これによると、尾張藩士寺西氏系図によると、藩老中・三千石寺西藤左衛門雅矩の養子で渡辺新左衛門の子、寺西藤左衛門昌豊が御弓頭だったというのが在る。(この寺西藤左衛門昌豊は享保十二年に没している。)

他で見つけた渡辺家の人々:

bullet「実説・名古屋城青松葉事件」によると、渡辺新左衛門の同族に渡辺美綱がいた。美綱家から冢田大峰家に養子に迎えられた冢田愨四郎(かくしろう)有志(御手筒頭格、御書物奉行・二百俵)も青松葉事件にて処刑されている。

bullet加藤国光著「尾張国諸家系図」

これによると、尾張藩士・横井家の系図によると、尾張藩士で大番頭の五千石・横井伊織時盛の娘、御蝶は渡辺宦綱に嫁している。(横井時盛は元禄八年(1695)に没している。)余談だが、この横井家の子孫の四千石・横井右近時保も青松葉事件で処刑されている。

(この渡辺宦綱は他の渡辺半蔵家の分家の人かも知れない。)