製作者の母方の渡辺家は尾張藩重臣の渡辺新左衛門家の子孫である。渡辺新左衛門在綱(御年寄列、二千五百石、五百石足高)は慶応四年(1868)正月二十日、名古屋城二之丸で「朝命」によって処刑さた。渡辺新左衛門を始め14士が処刑された、この出来事を「青松葉事件」と言う。渡辺新左衛門在綱は製作者の祖母、渡辺千代の四代前の人物だ。水谷盛光著『実説・名古屋城青松葉事件』には、「新左衛門の長女千代は、長徳寺・山田家へ嫁したという」と書いてあるが、渡辺千代は製作者の祖母の曾祖母にあたるという話である。
尾張藩士の渡辺新左衛門家は渡辺半蔵守綱の実弟の渡辺半十郎政綱の嫡子、渡辺新左衛門秀綱が尾張徳川義直に仕えて知行高五百石を賜ったことに始まった。
渡辺新左衛門秀綱の子孫で分家したものも多く、尾張徳川家に仕えたもの、紀州和歌山藩・徳川家に仕えたのも在る。
渡辺新左衛門家の上屋敷は「片端筋、竪杉ノ町南東各、門北向」(現在の名古屋市東区泉一丁目四付近)にあった。また、下屋敷を尾張国愛知郡前津村(名古屋市)に持っていた。
渡辺新左衛門家は知行地を戸田庄砂子村(うち122石)、則武ノ庄五女子村(うち340石余り)、朝日庄下ノ郷(うち40石)、国府庄長束村(うち7石余り)、国府庄小池正明村(うち216石余り)、庄田庄榎津村(うち317石余り)、戸田庄包里村(うち90石余り)、松葉庄東条村(うち209石余り)、門間庄青塚村(77石余り)、中切庄越津村(うち153石余り)などに持っていた。(『尾張徇行記』参照)
渡辺新左衛門家の歴代当主
 | 渡辺 半十郎 相綱
渡辺新左衛門景綱の嫡子。母は彦坂平助忠元の娘。室は志水治右衛門忠良の娘(志水監物忠知の養女)。後室は志水監物忠知の娘。
万治元年、御供番となり、天和二年八月十四日家督相続。同年十月没す。
『士林沂』所収の志水家系図によると、志水治右衛門忠良の娘で志水監物忠知の養女になった者が渡辺半十郎相綱の妻になったとある。また、同家系図に志水監物忠知の娘が渡辺半十郎相綱の後室になったとある。志水治右衛門忠良と志水監物忠知は、共に志水甲斐忠宗(一万石)の子で、慶安元年に尾張藩年寄となった志水甲斐忠政の弟に当たる。
|
 | 渡辺 源左衛門 弼綱
渡辺新左衛門景綱の子。母は矢野宮内長昌の娘。貞享三年三月三日没、法名了心。
|
 | 渡辺 半左衛門 秀綱
渡辺新左衛門景綱の子。元禄十三年没、法名清安。
|
 | 渡辺 新左衛門 元綱
渡辺半十郎相綱の嫡子。初め半太夫、後新左衛門。妻は渡辺源太左衛門奉綱の娘(尾張藩士渡辺監物顯綱妹)。
天和二年十二月二十七日、父の家領を継ぎ千五百石を賜り、寄合となる。元禄元年十月十日、大番頭となる。元禄八年正月十三日、五代目尾張徳川五郎太の傅臣となる。元禄十二年七月十三日、江戸において御側大寄合同心頭格となる。元禄十三年十二月二十一日、尾張において五百石の加増を受け、都領二千石となる。元禄十六年十一月二日、江戸において同心七預けられる。宝永三正月二十一日、江戸において三百石の加増を受け、御城代並となる。宝永五年四月四日、御城代となる。享保五年六月十四日没す。法名岳心。
|
 | 渡辺 長門守 久綱
渡辺新左衛門元綱の嫡子。初め半五郎、後半十郎、長門守。累進して七百石の加増を受け、三千石を領した。
元禄八年正月二十九日、初めて謁する。享保五年八月六日、父の遺領を継ぎ、大寄合となる。同年九月十一日、江戸において老中となり、、更に江戸定府となり、同心を預けられる。享保六年七月十五日、七百石の加増を受けて都領三千石となる。享保十年十二月二十六日、従五位下、長門守に任ぜられる。享保十一年正月十三日、江戸にて没する。
『尾藩世紀』(御年寄勤務年表)によると、「渡辺長門守」が享保五年から享保十一年まで尾張藩の御年寄であったと記されている。
|
 | 下条 沼右衛門 孝正
渡辺新左衛門元綱の子で、尾張藩士・下条庄右衛門正春の養子になった。
元禄十六年十一月十五日、召出されて御小姓となり、俸禄を賜る。宝永二年四月、養父の家領千二百石を賜り寄合となる。宝永四年九月十五日、御書院番頭となる。享保十二年十一月十三日御用人となる。享保十五年八月二十五日没する。
下条家は下条正明に始まる。正明が、徳川家康に仕えた下条九兵衛の娘(正明の伯母)清高院の養子となり、徳川義直に付属された。宇多源氏、佐々木定綱の末流と伝える。正明の実父は信州小笠原氏の一族、林七兵衛(『士林沂』)。下条家の石高は二千五百石で、上屋敷は三の丸桜馬場に、下屋敷は愛知郡日置村(名古屋市)に在った。
|
 | 寺西 藤左衛門 昌豊
渡辺新左衛門元綱の子。藩老中、三千石・寺西図書(藤左衛門)政矩の養子となる。
享保元年(1716)八月二十九日、養父家領の内四百石を分け与えられて、寄合となる。享保三年二月九日、御供番となる。享保六年三月十二日、御弓頭となる。享保十二年(1727)正月二十七日卒。跡目は渡辺半蔵家の分家の渡辺監物顕綱の子で婿養子の藤左衛門昌凭が継ぐ。
『士林沂』所収の寺西家系図によると、この藤左衛門の名は「昌豊」で、寺西図書政矩の実子で高木志摩清長の養子となった藤九郎の名が「雅言」になっているが、同『士林沂』所収の渡辺新左衛門家系図によると、昌豊の名が「寺西藤左衛門雅言」となっている。高木家の系図でも高木志摩清長の養子となった藤九郎の名が「雅言」になっているらしい為、この藤左衛門の名は「昌豊」で正しいのではないかと思う。
寺西家は尾張藩の重臣。初代寺西藤左衛門昌吉は徳川家康の四男、松平忠吉に仕え、国奉行となった。忠吉の死後、初代尾張藩主徳川義直に仕えて、義直が大阪冬の陣に出陣した時に名古屋城の留守を預った。これが尾張藩城代職の始まりといわれる。その後、昌吉の子、藤左衛門秀昌とその子、藤左衛門昌勝は寄合役に就いた。寺西図書政矩は昌勝の子で、藩老中になった。政矩は享保八年(1723)に没した。政矩の嫡子、図書雅宣は無嗣子で正徳五年(1715)に没している。
|
 | 渡辺 新左衛門 綱忠
渡辺新左衛門元綱の子、長門守久綱の実弟。初め半之右衛門、後新左衛門、致仕して半十郎。兄久綱の跡を継ぎ、二千石を領した。
実兄、渡辺長門守久綱の死後、享保十一年二月三日、兄の名跡を継ぐことを願出て許され、二千石を賜り大寄合となる。元文二年五月、御老中並となる。延享元年二月、同心九騎を預けられる。明和三年十月四日老年により致任。
『士林沂』所収の石河家系図によると、石河七郎左衛門正信の娘が初め千村善次郎の妻となり、後渡辺新左衛門の妻となった。時代からして、これの「渡辺新左衛門」は綱忠のことではないだろうか。石河七郎左衛門正信は石高八百石、延享二年に尾張徳川宗睦の傅臣になった。延宝三年に尾張藩御年寄となった石河伊賀守章長の息子で、宝永三年に尾張藩御年寄となった一万石・石河出羽守正章の弟に当たる。
|
 | 渡辺 新左衛門 董綱
渡辺新左衛門綱忠の嫡子。初め竹吉、後半七、新左衛門。妻は成瀬半太夫(大和守)正明の娘。
明和三年十月四日父の家領を継ぎ大寄合となる。
|
 | 渡辺 九八郎 堅綱
渡辺新左衛門綱忠の子。初め亀太郎、後九八郎。
宝暦八年二月十八日召出され、八代尾張徳川宗睦の御部屋の奥組付属となり、五十石及び五口月俸を賜る。宝暦十一年八月十五日、表組となる。安永三年四月十日御部屋御小姓立となり、加増を受ける。安永五年二月五日、表組となる。
|
 | 渡辺 半十郎
渡辺新左衛門董綱の嫡子。
|
 | 渡辺 新左衛門 維綱 1794-1859
渡辺半十郎の嫡子。初め半七、後半十郎、新左衛門。妻と志は尾張藩士(御年寄)渡辺源太左衛門豊綱の娘。
文化四年(1807)家督を相続する。安政六年(1859)八月二十四日没する。法号岱岳。
『尾藩世紀』(御年寄勤務年表)によると、「渡辺新左衛門」が安政五年から翌年まで尾張藩の御年寄であったと記されている。蓬左文庫蔵『家中いろは』(嘉永五年(1852))でも「列・渡辺新左衛門」の名が見える。
尾張藩士渡辺源太左衛門豊綱は三千五百石・成瀬織部正恕の二男で渡辺監物家の当主、渡辺主馬年綱の養嗣子となった。渡辺監物家は千五百石を領した。(蓬左文庫蔵『士林沂』参照)
|
 | 渡辺 新左衛門 在綱 1820-1868
渡辺新左衛門維綱の嫡子。尾張藩士、御年寄列・二千五百石(内五百石足高)。初め半十郎、後新左衛門。母は尾張藩士渡辺源太左衛門豊綱の娘、と志。妻みつは、三千五百石・尾張藩士成瀬半太夫正功の娘。
部屋住にて尾張藩に仕え、御用人となる。嘉永六年(1853)の米艦黒舟の浦賀来航によって、半十郎在綱は翌年、尾張藩邸の隣りの築地の浜御殿に大砲を並べ、警衛隊の隊長として尾張藩士を指揮した。父新左衛門惟綱の死後、名を新左衛門に改める。尾張徳川十五代茂徳の信頼を得て、用人から御年寄列家老に進む。尾張家家中では珍しく、自費で仕込み銃、西洋馬具などを購入した。常に武術を修め、洋式砲術の利を悟り、私財をなげうって大砲を鋳造し、少壮の藩士に銃陣の訓練を施す。元冶元年(1864)、第一次長州征伐のときには御用人・千賀与八郎、加判滝川又左衛門とともに、舶来のゲーブル銃を肩にして、馬上豊かにオランダ製ゲーブル銃やイギリス製ミニエー銃で武装した一隊を指揮し、征長総督・尾張徳川十四代慶勝に従って、広島へと駒を進めた。大阪市内を行進する尾張藩勢は数こそ多いが旧熊依然たる装備に身を固めていた。しかし、道沿いで見物していた群衆はオランダ製ゲーブル銃やイギリス製ミニエー銃で武装したその渡辺新左衛門隊を見て、「さすがに尾張藩」と目を見張らせたという。その年十一月十八日、芸州浅野家家老・浅野右近邸で、徳川慶勝、成瀬隼人正正肥、滝川又左衛門に並んで長州三家老の首級実験に列座した。
勤王・佐幕の騒然たる中で、尾張藩もその何れかに迷っていた。それぞれ自分の主張に従って、人心は自然に二つに分かれ、新左衛門在綱は、勤王派の田宮如雲の反対側の佐幕派の巨魁として立った。藩論は一向に整わず、暗中に刺客が常にこと二人を狙っていた。ある時、勤王派の刺客数名が新左衛門在綱を襲ったが、新左衛門在綱は少しも恐れず、「お身達は、わしを斬っても時代の流れを断ることは出来ない、二つの論の是非は、後の世の人が決めるものだ。藩論はやがて落ち着く、その時までわしの生命を貸してくれ」と平然と言い放ったという。(『尾張徳川家明治維新内紛秘史考説 -青松葉事件資料集成-』)
渡辺新左衛門在綱は部厚な肩に骨ばった硬い頬をして、いかにも代々の武人らしい風貌をしていたという。武門の名家、寡黙で剛直な男だった。時の藩主に忠実に仕える男で、政治家ではなく、尾張徳川十四代慶勝を担ぐ運動にも加わらなかったし、若侍達とも接触する事もすくなかった。保守的ではあるが、それでいて洋式装備を好むというので、金鉄党からは竹腰派と見られた重臣の一人だった。(『渡邊物語』)
慶応四年(1868)正月二十日、尾張徳川十六代義宜を奪い、江戸に下って旧幕軍に合流し、再び西上するという、クーデダー策謀の首謀者として「青松葉事件」で名古屋城二丸御殿向屋敷に散った(49歳)。討手は新野久太夫、新左衛門家伝家の宝刀、志津三郎で介錯した。名古屋守綱寺に葬られ、墓は現在平和公園守綱寺に在る。
「鉄砲新左」、「青松葉」などという異名が在ったという。

『惟尾美代葵松葉(これをみよ・あおいにまつのは)』(明治19)表紙の渡辺新左衛門(文中、畑部新左衛門として出ている)。

晩年の渡辺みつ。1822?-1899
渡辺みつは尾張藩士・成瀬半太夫正功の娘。御付家老の成瀬家の分家で三千五百石を領していたという。成瀬半太夫家は成瀬隼人正正成の弟の成瀬吉左衛門正則の息子、成瀬半太夫正信に始まる。成瀬半太夫正信は千五百石を領し、その子成瀬大和守正惟は享保十年に老中となって、四千石を領した。渡辺長門守久綱の娘は「成瀬半太夫」に嫁したとあるが、これは成瀬大和守正惟の嫡子、成瀬半太夫正明のことだと思われる。
|
 | 渡辺 源吾
渡辺新左衛門惟綱の三男。
尾張徳川家に召出されて分家し、百五十石を知行した。
|
 | 渡辺 新左衛門 安綱
渡辺新左衛門家の分家、渡辺九八郎の子。渡辺新左衛門在綱が処刑された後、一時分家の渡辺九八郎家から新左衛門家の名跡を継ぐために迎えられたという。渡辺山(覚王山月見坂)に在った渡辺新左衛門家の墓地を、一族に諮ること無く明治二十六年に売払ってしまったという。
|
 | 渡辺 半十郎 1839-1869?
渡辺新左衛門在綱の嫡子。青松葉事件で織田満也家にお預けとなり、他家預け中に肺結核で死去した。
|
 | 渡辺 千代
|
 | 渡辺 亘 1849?-?
渡辺新左衛門在綱の二男。青松葉事件で実兄半十郎と共に織田満也家にお預けとなった。明治三年、新左衛門家が家名の復活が許され、五十俵の家禄が給与されたとき、渡辺新左衛門家を継いだ。法名岳源。妻はたに(うめ)。
|
 | 渡辺 莫
渡辺亘の嫡子。法名岳誠。
|
 | 渡辺 易
渡辺新左衛門在綱の娘の長谷志やうの子。渡辺莫の養子となり、渡辺新左衛門家を継ぐ。法名岳易。
|
 | 渡辺 次郎
渡辺易の嫡子。現在の渡辺新左衛門家の当主。
|