 | 渡辺 若狭守 直綱 1601-1668
渡辺新左衛門秀綱の子。初め半十郎、後一学、若狭守。母は渡辺半蔵守綱の娘。
武蔵国で生まれる。はじめ一学と称し、元和二年、十六歳で後の初代紀伊和歌山藩主徳川頼宣に仕える。駿河にて知行三千石を与えられた。太刀も拝領し、太刀の奥書に「此妙刀也、自右肩至左脇一刀截断候、源頼信公以之賜予栄又栄也、故命工刻焉示其不忘也、渡辺直綱書、元和二年八月十六日和州手掻住包国於駿府造之」と記されている。その後十七歳にして鉄砲足軽五十人を預けられ、寛永三年さらに十騎を増やされ、後紀伊国隅田組十五騎を預けられる。寛永十一年、三千石を加増され、正保二年若狭守に任ぜられる。明暦元年知行八千石を与えられる。寛文八年八月、六十七歳で没する。
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 | 渡辺 若狭守 令綱 ?-1711
紀伊国和歌山藩士・渡辺若狭守直綱の嫡子。初め一学、後若狭守、能登守。
紀伊国で生まれる。二代目紀伊和歌山藩主徳川光貞に使える。寛文七年、部屋住にて召し出され、知行一千石を与えられる。寛文九年、父直綱の跡目、知行八千石を相続し、令綱が与えられていた一千石を藩に返納。貞享二年五月、能登守に任ぜられる。貞享五年四月十九日、不行跡を理由に父子共に召し放たれるところを、直綱の旧功に免じて知行の内二千石が嫡子新次郎に与えられ、令綱は隠居の様体で知行地内に引き籠もり、五十人扶持を受ける。令綱が藩から処分された理由は、父直綱が末期に八千石の内、三千石を渡辺主水泰綱に分け与えるように遺命したが、それを実行しなかったためと言われている。正徳元年(1711)七月に没する。
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 | 渡辺 主水 泰綱 1658-1737
紀伊国和歌山藩士渡辺若狭守直綱の養子。幼名松之助。隠居後は憩道と号す。
後の初代伊予国西条藩主松平頼純の三男として生まれたが、頼純が十三歳の時に生まれたため、一般に披露されず、渡辺若狭守直綱の養子になったという。
武蔵国で生まれる。万治元年(1658)十月、初代紀伊和歌山藩主徳川頼宣から松之助と命名される。十五歳頃、渡辺若狭守令綱と同道で江戸から和歌山へ赴いたが、この時渡辺姓を名乗るように二代目紀伊和歌山藩主徳川光貞から命ぜられた。頼宣の頃に合力五百石を与えられたが、寛文七年六月三十日五百石を加増され、都合千石となる。寛文九年知行二千石となり、貞享三年十月十六日中川弥右衛門の女と縁組。元禄二年六月合力三百両を与えられる。紀伊和歌山藩主初代頼宣、二代光貞、三代綱教、四代頼職、五代吉宗に仕えた。正徳四年六月十八日隠居する。元文二年閏十一月十七日、八十歳にて没す。
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