|
|
|
元和元年(1615)四月九日、尾張徳川家の家老であった寺部渡辺家初代半蔵守綱が名古屋の藩邸で死去すると、父の菩提を弔うためにその子忠左衛門(半蔵)重綱によって、領地寺部村内の横山に墓と小さな堂舎が建てられ、「横山御堂」と呼ばれた。 寛永十六年(1639)四月六日、恵頓が寺部渡辺家三代張綱により尾張から「横山御堂」の初代住職として招かれた。これを期に、「横山御堂」は渡辺山守綱(しゅこう)寺と寺号を改めて、渡辺家の菩提寺となり、大改築と寺域の整備が行われた。 慶安元年(1648)十月一日、二代重綱が名古屋で七十五歳の生涯を終えると、張綱は名古屋にも菩提寺として渡辺山守綱寺を建立した。名古屋の渡辺山守綱寺建立の時期は、『尾張名所図会』では慶安二年(1649)、『府城志』では承応二年(1653)、『尾張誌』では明暦二年(1656)とそれぞれ伝えていて、明らかではない。名古屋の渡辺山守綱寺も恵頓和尚を開基とし、住吉町にある。 寺部の渡辺山守綱寺は名古屋の渡辺山守綱寺を兼帯している。
渡辺半蔵家は寺部の渡辺山守綱寺を菩提寺とした。大名となった分家の渡辺家も初代、渡辺丹後守吉綱とその息子二人がここに葬られているという。
渡辺新左衛門家、渡辺監物(半九郎)家を始め、多くの尾張藩に仕えた分家は住吉町の渡辺山守綱寺を菩提寺とした。しかし、「半蔵流」だからといって、必ず守綱寺を菩提寺としていた訳ではない。例えば、新左衛門家の分家、郷右衛門(新助)家は情妙寺前・自然院を菩提寺としていた。
渡辺新左衛門家の墓地は住吉の守綱寺の他に覚王山月見坂の渡辺山の一角にあって、そこに代々の当主の墓が在った。住吉の守綱寺墓地と渡辺山の墓地は現在、平和公園守綱寺墓地に移されている。
覚王山月見坂の渡辺山の墓地には新左衛門家の十二代惟綱までの歴代当主の墓が在ったという。その家族と十三代在綱の墓は守綱寺にあった。渡辺山墓地の入口には歴世墓地を表示する大きな碑があって、墓の土盛りの上に誰の墓であるかを表示するために小さな石柱が立っていたという。 また、当主の碑に限って朱肉の生地に金が塗りこまれていたという。
|