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戦国時代、渡辺久左衛門競が三河国八名郡和田郡(豊橋市)に住んで松平信忠に仕え、天文三年没した。競の子の渡辺久左衛門信、孫の渡辺図書助盛も松平家に仕え、和田の春興院に葬られている。盛の子渡辺十右衛門永、渡辺弥之助光、渡辺弥之助勝、渡辺権六正と続き、幕臣となり、近江で五千石(一説は二千五百石)を領した。 これと同族の渡辺山城守茂は天文二十年(1551)渡辺久左衛門信の三男として生まれ、徳川家康に仕え、姉川合戦、三方ヶ原合戦、小田原攻め、関ヶ原合戦などの数々の戦に加わり軍功があった。慶長十年に大番頭になる。大阪の両陣にも参加する。後、駿府城番、二条城番になり七千石を領する。その後、駿河大納言(松平)忠長付けとなる。寛永十五年(1638)正月四日、八十八歳で没する。従五位、山城守。この家も渡辺監物忠、渡辺久左衛門善、渡辺久左衛門進(五千石)、渡辺十郎右衛門勇と続く。進の弟に渡辺久助均(千石)と渡辺久蔵保(千石)もいた。 半蔵流嵯峨源氏と同族で、渡辺源次道綱の子の渡辺八右衛門義綱に始まる渡辺氏は義綱が松平広忠、徳川家康に仕え、永禄十二年に三河国碧海郡赤渋(岡崎市)にて死去した。その子渡辺仁兵衛廉綱、孫の渡辺日根左衛門久綱が榊原家に仕えたが、久綱は浪人し、渡辺守綱の旧臣であることを理由に寺部に住んだ。その子渡辺八郎右衛門定綱が徳川義直に召し出されて渡辺忠左衛門同心となった。また、定綱の弟、渡辺日根左衛門安綱、渡辺八之進増綱は渡辺半蔵家に仕えた。 同じく半蔵流嵯峨源氏と同族で、渡辺源太左衛門範綱の子に始まる氏は、渡辺六郎左衛門生綱が永禄七年、三河で渡辺六左衛門真綱(渡辺半兵衛真綱と同一人物か)の子として生まれる。父真綱はたびたびの戦に功があった。生綱は兄渡辺憲綱が高天神城で戦死したため惣領となり、徳川家康に召し出され、長久手の戦い、小田原攻めに従軍。天正十八年二月知行百俵、翌年五月武蔵国にて知行二百石、同年七月三百石を与えられる。慶長五年、関ヶ原の戦いに従軍。慶長拾八年、後の初代紀伊和歌山藩主徳川頼宣に付けられて、大阪の陣に参加する。その後加増されて四百五十石を与えられる。元和五年、紀伊入国時には旗奉行を勤め、八百石に加増される。寛永十二年十二月一日、七十二歳で没す。嫡子の渡辺綱治は徳川秀忠に召し出されて甲府勤番となっていたため、生綱の跡目は二男の渡辺六郎左衛門知綱が継いだ。 渡辺兵八考、その子渡辺吉左衛門悦、徳川家康に仕えた子孫は九百石を領す。 伊勢の北畠家臣に渡辺筑後守信、その子渡辺甚右衛門朝、その子渡辺太郎右衛秀の名が見える。 武鑑に載る渡辺照は家康に仕え、嫡子渡辺好は上杉家に仕え、好の弟厚は武田家に仕え、嫡子高は福島氏から佐倉候と歴任する。孫渡辺勤は堀田正俊に従い安中に移り、年寄、五百石を領す。その他一門渡辺昌、その子渡辺敬、その子渡辺張は藩治に尽すること多く、城代、文武の総教として六百石を給せられる。 遠江の渡辺氏には、戦国期の戦史を飾った渡辺金太夫照がいた。今川氏に仕え城飼郡土方村の地頭となり、さらに高天神城主小笠原長忠に属し、姉川の合戦で一番槍の功名を挙げ、織田信長からも賞賛された。しかし、信濃高遠城の落城の時に討死した。その子渡辺金太夫は細川氏に仕え、肥後渡辺氏の初代となる。照の曽孫金吾は幕臣となった。その弟渡辺左太夫は旧知の土方村に移住し、竹下村を開拓した。 藤堂高虎、増田長盛などに仕えて知られている渡辺勘兵衛了は、始め浅井氏麾下の阿閉氏に仕えていたが牢人する。後、羽柴秀吉の養子で織田信長の実子、豊臣秀勝に仕える。秀勝が病死した後、中村一氏に仕え北条氏攻めで戦功を上げた。後再び牢人、増田長盛に仕える。増田長盛は関ヶ原の戦で西軍に着き、了は長盛の居城である大和郡山城の守備についた。 関ヶ原後、西軍の諸将は領地を没収・削減されたり転封させられ、増田長盛の大和郡山城も取り上げられることとなった。藤堂高虎が城の受取りの任を受けて大和郡山城へ赴くが、了は門をかたく閉ざしこれを拒んだ。一戦も辞さない覚悟であるが、藤堂高虎にとってそれでは都合が悪いが、了は増田長盛の命で城を守っているので長盛の命以外で守りをとくわけにはいかないと拒んだ。この頃増田長盛は既に高野山へ蟄居を命ぜられており大和郡山城へ開城の為に赴くことは不可能だった。藤堂高虎は徳川家康へ願い出て増田長盛より城明け渡しの書状をとらせた。こうして無事城明け渡しは完了したが、この時の了の行動は武士としての意地と名誉を貫いたものとして讃えられた。藤堂高虎自身も惚れ込み、このあと勘兵衛を召し抱える。大阪の陣では高虎の将として長宗我部盛親の陣と対峙した。しかし戦後またもや高虎の元を辞して牢人し、諸大名の捨扶持を受けて余生を過ごした。 甲斐の武田家に仕えて戦功をあげた嵯峨源氏の渡辺氏もあった。 豊後の南山城主志賀鑑隆の家臣に渡辺友綱がいた。天正十四年(1586)、島津氏は南山城を攻め落としたが、友綱は鑑隆を守って南山城の西北にある縄張城に逃れた。しかし島津の軍勢はこれをも追撃して縄張城を囲み一気に攻略して終わった。 渡辺筑後守勝は渡辺与右衛門重の子として永禄四年(1561)生まれる。初めは豊臣秀吉に仕えていたが、後徳川家康に属して三千石を拝領して、従五位、筑後守になる。慶長五年、関ヶ原合戦には徳川秀忠に従って参陣、その後は秀忠の娘千姫付けとなり、寛永三年(1626)六月九日、六十六歳で没する。 戦国時代、浅井家の武将に渡辺孝、任親子があった。任は浅井郡高田に拠る。姉川合戦では奮戦目覚ましく感状を受ける。天正元年(1573)八月、浅井、織田の激突した小谷城で討死した。考の子、渡辺甚助統は近江国で生まれ、永禄七年(1564)浅井長政から知行を与えられるが、浅井家滅亡後は豊臣秀吉に仕えた。 渡辺宮内少輔昌は、初めは将軍足利義昭に仕えていたが、天正元年(1573)義昭の織田信長の対立に際して信長に属す。その後、豊臣秀吉の配下に入り、秀吉の馬廻として活躍する。その子、渡辺内蔵介糺は槍の名手で、槍術をもって秀頼に仕えた。元和元年(1615)大阪夏の陣、知略の明石全登、槍術の渡辺糺、剣術の毛利勝永が最後まで踏みとどまった。しかし、秀頼の最後を知り、城内で自刃する。 備後国山田荘(広島県福山市)の渡辺氏は鎌倉末期に入部し、渡辺越中守兼は文明年間頃に一乗山城を築城した。兼はその後しばらく大内氏に属していた。天文三年(1534)宮氏の居城亀寿山城を大内氏と毛利氏が攻撃した時、これに参加する。宮氏の降伏後は亀寿山城の監視役も勤める。天文二十年、大内氏が陶氏に滅ぼされた後は毛利氏に属した。この系統の渡辺勝は安芸国毛利家の家臣で大永三年(1523)毛利元就の毛利宗家相続の実現に尽力した重臣の一人だった。しかし翌年、坂上総介広秀などと、元就に代えて弟元綱擁立を画策したのが露見して殺される。勝の子、渡辺通は天文十二年(1543)出雲国で元就の身代りとなって討死した。孫の渡辺長も毛利家の重臣として活躍した。 安芸の渡辺氏、長見城主渡辺次郎左衛門には建武三年(1336年)に毛利時親が安芸に下向した時に従い、以後代々重臣として毛利家に仕えた。長見山城(広島県高田郡甲田町)に拠った。大永四年(1524年)、坂上総介と謀って毛利元就の弟元綱の擁立の企てに失敗して、元就によって滅ぼされた。 隠岐の渡辺氏は美作国発祥。始め三星山城に拠っていたが、毛利氏に敗れて隠岐国海士郡崎(島根県隠岐郡海士町崎)に逃れた。 秋月藩家老に渡辺氏があった。直固は黒田直重に仕えて元禄13年(1700年)家老となり、以後代々家老をつとめた。文化8年(1811年)の「織部崩れ」の際、渡辺帯刀が流罪となり、没落した。 明治初期、沼津兵学校で英語教授となった旧幕臣渡辺一郎温は日本最初の『イソップ物語』の翻訳者として著名である。 諏訪藩士の出身の渡辺氏は明治維新後、渡辺千秋は内務次官、宮内相などを歴任し、明治44年伯爵となった。また、千秋の弟の国武も大蔵次官や蔵相を歴任、同28年子爵を授けられた。浜口内閣の法相をつとめた渡辺千冬は、千秋の次男で、国武の養子となったものである。千冬の子武も大蔵官僚となり、のちアジア開発銀行総裁などを務めた。 大村藩士出身の渡辺家は明治維新後、渡辺清・昇の兄弟が元老院議官などを歴任し、明治20年清が男爵、昇が子爵を授けられた。 |