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平成十二年(2000)十二月八日午前、渡辺新左衛門家の当主、渡辺次郎氏と電話で話す機会を得た。前日に既に次郎氏の令室とはお話していて、名古屋守綱寺の住職羽塚氏が既に次郎家に連絡して下さっていたという。年末で多忙の中、次郎氏は一時間辺りに渡ってお話して下さった。 その日の午後、次郎氏と地下鉄星ヶ丘駅付近にある「三越」入口前で会うことになり、初めて星ヶ丘まで出て行った。星ヶ丘は栄から地下鉄で20分程で、結構「繁盛した町」という感じの所でちょっと驚いた。次郎夫妻は車で現れ、そこから近い平和公園へ連れて行って下さった。 次郎氏はわざわざ集められた、幾つかの渡辺氏関係の資料をコピーされて製作者に下さった。 次郎氏の話では次の事が判った。
平和公園に足を向けたのは初めてだった。以前、自分で探してでも渡辺新左衛門家の墓を見つけたい、と思っていた。しかしこの日に次郎夫妻に連れて行って頂いて、自分で渡辺新左衛門家の墓を見つけるのは不可能に近かったという事が判った。なんと言っても広大な平和公園には石碑ばかり並んでいる。大抵の墓地は入口にその寺院の名前が書かれた看板が有るのだが、守綱寺墓地にはそれさえも無かった。 平和公園守綱寺墓地は、市バス「平和公園」停留所に近いところに在る。バス停から東を見ると、ちょっと丘になった所がある。守綱寺墓地は、その丘の中腹あたりにある。 守綱寺墓地の始まる所まで行くと、「守綱寺墓所」と刻まれた大きな石碑が建っている。しかし、遠くから見ると、これは他の墓碑と同じに見えて、あまり守綱寺墓地を探す時の目印に成りそうではない。
守綱寺墓地の上端、一番見晴らしの良さそうなところに新左衛門家の幾つかの石碑が並んでいる。一番右に二つ、道標のように小さな石碑が二つ並び、三つ目は今の墓碑と比べれば少し小柄だが、右の二つに比べれば然程大きい石碑である。これが渡邊新左衛門在綱の墓である。右の二つの石碑は右からそれぞれ渡邊新左衛門元綱(岳心)と渡邊新左衛門綱(岱岳)の墓碑である。 渡邊新左衛門家の墓については、水谷盛光著『尾張徳川家明治維新内紛秘史考説 -青松葉事件資料集成-』に詳しい。元々覚王山月見坂の渡辺山の一角に、新左衛門家の十二代維綱までの歴代当主の墓が在ったという。その家族と十三代在綱の墓は守綱寺にあった。渡辺山墓地の入口には歴世墓地を表示する大きな碑があって、墓の土盛りの上に誰の墓であるかを表示するために小さな石柱が立っていたという。また、当主の碑に限って朱肉の生地に金が塗りこまれていたという。 新左衛門在綱の墓の左には新左衛門妻のみつの墓碑がある。 渡邊次郎夫妻がお持ちになった供養花を添えて、ここで夫妻と一緒にお参りした。
住吉町の守綱寺住職羽塚氏は、新左衛門在綱の墓は「朝敵」として斬首された後に作られているため石碑も立派ではない、と仰った。実際には結構立派な石碑だと思った。しかし、片が欠けたりしていて、それを直そうとしてコンクリートでも塗った様なあともある。次郎氏の話では、石碑を新しい物にしたかったのだが、名古屋市の許可無しでは更新することが出来ず、石碑が崩れるまでは許可が下りないらしい。 後で知ったが、『尾張徳川家明治維新内紛秘史考説 -青松葉事件資料集成-』には渡邊周一氏(新左衛門在綱の三男鋭三の子)が語られた逸話がのっている。
渡邊みつの墓の左にはあと四基、石碑が並んでいる。これらは「渡邊五代目源太郎綱治」、「證月院釋妙敬信女」、「渡邊五代目源太郎(?)綱義」、「渡邊二代目三郎兵衛美綱」とある。これらの人々のことはまだ判明していない。渡邊三郎兵衛美綱( ? - 1829)は青松葉事件で処刑された冢田愨四郎有志の実父であり、水谷先生は「新左衛門の近親」と記されている。
渡邊次朗氏は「御偉い様達の墓が見晴らしの良い所に並んでいる」と言われ、次郎氏も何れは守綱寺墓地に葬られるが、「もっと下の所でしょう」と冗談を言われていた。 「御偉いさまの墓」から少し下った所には、「渡邊家累代之墓」と刻まれた石碑が何基もあった。その並びには、長谷家の墓が並んでいる。次郎氏の御父上は長谷家の出で、渡辺家の養子となられた。ここに十六代渡邊新左衛門で次郎氏の父易(岳易)、若くして亡くなられた次郎氏の兄も眠られている。次郎氏が言われた「もっと下の所でしょう」というのは冗談ではなかったらしい。
長谷家の墓碑が並ぶ直ぐ隣りに「渡邊真綱」(?- 1902)の墓碑もあるが、これが誰なのか、現在の時点では判明していない。 次郎夫妻は星ヶ丘の市バスターミナルまで送ってくださって、そこで別れを告げた。この日は渡邊次郎夫妻に大変お世話になり、今回の史跡巡りで次郎ご夫妻のお話が聴けたことが一番の成果だったと思う。 後で考えたのだが、他に九基あるはずの渡辺新左衛門家当主の石碑は何処に在るのだろうか。『尾張徳川家明治維新内紛秘史考説 -青松葉事件資料集成-』では、次郎氏の実妹、小森千代子氏が子供の頃、渡邊山の墓地に毎年お盆に行かれた事を思い出されている。そこには歴代の当主の石碑が在ったが、十一基しか無かったと思う、と言っておられる。初代新左衛門は半蔵守綱の弟の政綱で、慶長元年に武蔵国で没している。二代新左衛門秀綱が初めて尾張藩に附属されたので、渡邊山に在った当主の石碑は二代新左衛門秀綱から十二代新左衛門維綱の十一基で正しいのではないだろうか。(秀綱を初代として数えると、勿論話は変わって来るが。)千代子氏は、「石碑は今の日本石油KKの社宅の下に埋まっているのでしょう」と言われたという。 『尾張徳川家明治維新内紛秘史考説 -青松葉事件資料集成-』文中、岳心と岱岳の墓碑は、熊沢富士子氏(渡辺新左衛門在綱の妹さだの曾孫、熊沢武男氏の令室)が昭和三十八年墓参した時に付近のキリスト教墓地に在ったのを発見して、平和公園の現在の場所に移したという。更に富士子氏は、渡邊山に「初代から十二代維綱までの歴代当主の墓があった」としている。 同書では渡邊はな氏(渡邊次郎氏の母)が、「お盆には、渡邊山墓地へ大きな竹筒を十一本持っていくのを常とした。つづいて、守綱寺へ廻った。昭和二十四年ごろまで墓参をつづけた。」と言われたという。これから、やはり十一基の当主の墓が渡邊山の墓地に在ったのではないだろうか。
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