WatanabeTitleInv.gif (3303 バイト)

名古屋城下町

上へ 名古屋城 名古屋城下町 史跡を訪ねて

av01.jpg (102234 バイト)
昭和46年頃の名古屋城の城下。
@名古屋城大天守閣
A二の丸向屋敷址 (現・愛知県体育館)
B評定所址(現・愛知県産業貿易館)
C成瀬隼人正邸址 (現・名城病院)
D竹腰兵部少輔邸址 (現・愛知県警察本部庁舎)

 

名古屋城築城は、慶長十四年(1609)正月、家康が築城計画を始めて、三年後の慶長十七年正月に新城落成の儀を終わらせた。尾張徳川義直は元和三年(1617)、三の丸に御付家老の成瀬家、竹腰家の殿舎を営建させてた。渡辺半蔵家の上屋敷も三の丸本町御門内にあり、これら家老邸が名古屋城の守りを固めていた。

 

map01ls.jpg (83682 バイト)

 

渡辺新左衛門家の屋敷は片端筋、竪杉ノ町南東各、門北向(現在の名古屋市東区泉一丁目四付近)にあった。当時、付近には多くの上・中級藩士の屋敷が並んでいた。

 

yashiki8.jpg (138354 バイト)
昭和五十五年頃の渡辺新左衛門邸址。
「青松葉屋敷」と呼ばれた。

 

現在の名古屋市東区に属する名古屋城下の東部は、山口(現在の山口町付近)と呼ばれた地域に当たる。この山口のほぼ中心に位置し、広い境内を持つ建中寺を境とした山口の西部、現在の白壁町・泉町周辺は、一戸平均300から700坪に整然と屋敷割がなされ、藩侯から各家に与えられた上・中級藩士の屋敷で占められていた。 これらの屋敷は、屋敷替えの命や、断絶など以外には、代々受け継がれるのが一般的だった。

この地区に屋敷を構えた人物では、渡辺新左衛門家の他に、幕末維新に活躍した田宮如雲、田中不二麿、名古屋区長吉田禄在、初代名古屋市長中村修などがいた。その他にも、松平忠吉に仕えて日置流射術を伝えた長屋忠左衛門忠久、その弟子で京都三十三間堂の通矢で知られる星野勘左衛門茂則、徳川義直が招聘した中国人学者陳元贇、さらに朝日重村・重章父子、中村厚斎・直斎父子、直斎の子得斎、厚斎の弟習斎、河村秀穎・秀根兄弟、秀根の子殷根・益根らの学者・文化人達がこの地区に屋敷を与えられた。また、武士に限らず藩に仕えた医師や職人達で代々この土地に住んだものもあった。

 

map02ls.jpg (108709 バイト)

 

一方、建中寺の南側から東にかけて現在の百人町・黒門町・筒井周辺は、百人組・黒門組などに属して「組の者」と呼ばれた下級藩士の組屋敷が集中し、百坪以下の住居が軒を並べていた。

上・中級家臣と下級家臣の居住地区の境にあたる現在の代官町から葵町に至る六万四千坪の広大な敷地を占めたのが、御下屋敷と呼ばれた尾張藩主の別邸だった。これは延宝七年(1679)、尾張徳川光友の命によって別邸となった。

建中寺の北方、現在の徳川園を中心とした地域は城下と大曽根村の境にあたり、名古屋城下成立当時は成瀬家、石河家、渡辺半蔵家らの大名格の藩老の別邸が置かれていて、渡辺半蔵家は出来町に下屋敷を持っていた。この辺りの景観を好んだ尾張徳川光友は元禄八年(1695)三家とその周辺を合わせて十三万坪を超える広大な敷地を隠居所としてそこに住んだ。光友の死後はその居所を残して返還され、五万坪余となったが、享保五年(1720)には再び全て三家の別邸となった。更に維新後は、再び三家から尾張徳川家の所有となり、明治二十七年(1894)尾張徳川十八代義礼夫妻が東京から移住して本邸となった。